クリニックに通い始めてからの半年。
治療は、排卵の時期を超音波で確認しながらタイミングを取る方法だった。

「今夜か明日ですね」

医師からそう告げられるたび、
私は小さく頷いてクリニックを後にした。

その言葉を聞くと、胸の奥に小さな灯りがともる。

今月こそは。

そんな期待を、毎月のように静かに抱くようになっていた。

そして、排卵から約2週間。

その頃になると、私はいつもより自分の体の変化に敏感になっていた。
少しのだるさ。
少しの眠気。
ほんの少しの吐き気。

「もしかして」

そんな言葉が、頭の中を何度もよぎる。

期待しすぎないようにしよう。
そう思うのに、気づけば次の未来を想像してしまう。

もし妊娠していたら。
いつ報告しよう。
仕事はどうしよう。
赤ちゃんはいつ生まれるんだろう。

そんなことを考えながら迎える朝がある。

そして——

トイレで、現実を知る。

見慣れているはずの赤い色が、
その日はやけに冷たく感じる。

「ああ、まただ」

誰に聞かせるわけでもなく、
心の中で小さくつぶやく。

ほんの数分前まで、
少しだけ未来を信じていたのに。

たった一瞬で、
その未来は静かに消えてしまう。

仕事に行く準備をしながら、
私は何事もなかったように一日を始める。

その頃の私は、上場企業で従業員のメンタルヘルスに関わる仕事をしていた。
人の心の不調に寄り添い、話を聞き、支える仕事。
会社ではいつも通りに人と話し、笑い、人の心配をしている。

けれど、今思えば——
一番メンタルが安定していなかったのは、きっと私自身だった。

それでも仕事は仕事。
目の前の人の話を聞きながら、
自分の心はそっと横に置く。
けれど妊娠していないとわかるその日だけは、心のどこかに小さな空洞ができている。

そしてまた、思う。
来月こそは…と。

そうやって、私の不妊治療の1ヶ月は
何度も何度も繰り返されていった。

そして何より働き続けなければいけない理由があった。

不妊治療にはお金がかかる。

今のように保険が適用される時代ではなく、すべてが自己負担だった。

会計のたびに、
「本当にこんなにかかるんだ」と
一瞬だけ頭が真っ白になる。
それでも、
赤ちゃんを授かるためなら当たり前のことのようにその金額を支払っていた。

今思うと、金銭感覚が少しずつ麻痺していっていたのかもしれない。

とにかく、働かないという選択肢はなかった。
ただ、ひとつだけ問題があった。

私は職場に、不妊治療をしていることを話していなかった。

通院のたびに、
「今日は私用で…」
「少し用事があって…」

そんな言葉を並べながら、
休む理由を考えることに、
いつも小さな罪悪感を抱えていた。