姥湯うばゆ温泉桝形ますがた屋で日本酒「東光」を思う存分味わって、目覚めた心地良い朝……

 

 あれだけお酒を飲んだのに、ほとんど体に残っていないし、ちゃんとブログの記事も更新できています。

 

 朝の8時ぐらいに、お店の方が一つ一つの部屋を回って、朝食ができたことを知らせてくださいました。

 

 Hさんと一緒に、朝食が準備されている大広間に行くと……

 

 

 

 豪華な朝食が、盛りつけられていました。

 

 お米が美味しくて、おかわりを2回もしてしまいました。

 

 今日の行き先は、山形県にある大日坊瀧水寺りゅうすいじというお寺……

 

 姥湯温泉の場所は山形県最南端の福島県との県境の辺りですが、大日坊瀧水寺は山形県の北側の湯殿山ゆどのさんのふもとにあって、直線距離でも約100kmぐらいあります。

 

 Hさんの車で、のどかな風景の道をそのまま北上して、ついに到着……

 

 

 

 のどかの風景の中、ぽつねんと建っている大日坊仁王門……

 

 さりげなく自然に溶け込んでしまっているので、通り過ぎてしまうのですが、この仁王門は、鎌倉時代創建の八脚門はっきゃくもんとしては日本最古の建築物です。

 

 そのまま門をくぐって、あぜ道を進んでいくと……

 

 

 

 本堂にたどり着きました。

 

 大日坊瀧水寺は元々、湯殿山の別当寺院の四ヶ寺の内の一つでした。

 

 出羽三山の一座である湯殿山は「言わずの山、語らずの山」とされて、そのご宝前は現在では「湯殿山神社」のご神体として、多くの参拝者が訪れています。

 

 明治時代の政府による神仏分離政策と廃仏毀釈きしゃく令によって、出羽三山の湯殿山といえば、湯殿山神社の方だけが注目されていますが、歴史的にみれば、湯殿山の別当寺院四ヶ寺の中でも「湯殿山」を山号とし湯殿山総本寺であった、この大日坊瀧水寺こそが本家本元だったといっても過言ではありません。

 

 しばしの間、瀧水寺のご本堂にHさんと一緒に参拝しました。

 

 お寺の方から、これからご住職の法話が始まるので、中にお上がりください…… と声を掛けられます。

 

 前回に訪れた時もそうだったのですけれど、大日坊瀧水寺のご住職はとても面白い方で、この湯殿山の歴史をわかりやすくお話ししてくださいます。

 

 

 

 真如海しんにょかい上人の即身仏の撮影だけは、さすがに禁止されていますけれど、それ以外については、何と全て写真撮影OKです。

 

 もちろん多くの参拝客は、即身仏の真如海上人に参拝することが目的で、大日坊瀧水寺を訪れます。

 

 真如海上人は1783年(天明三年)に96歳で入定し、即身仏となられた行者です。

 

 真如海上人の即身仏が祀られている場所に、ご住職から案内され、真如海上人がどういった人だったか、どのようにして即身仏になったか、などのお話を聞かせていただきました。

 

 この時代は天明の大飢饉が起き、人々は常に飢えに苦しみながら、亡くなっていきました。真如海上人は人々の苦しんでいる様子を目にし、人々の苦しみを未来永劫に救いたいと、自らが即身仏となる決意をしました。

 

 ご住職は、よく混同されがちな「即身仏とミイラとの違い」について説明してくださいました。

 

 エジプトなどのミイラは、後から内臓などを取り出して防腐処理を施して人工的に姿をとどめたものですが、即身仏は違います。

 

 行者が自らが修行によって、脂肪や水分を落とし、うるしを飲んで腐敗しない体となって土中に入定し、千日後に掘り出されます。

 

 そのために、真如海上人は「木喰もくじき行」という木の実を数粒しか食べないという修行をし、厳寒の川の中に入って自らの脂肪を削ぎ、日々、うるしを飲んでいたそうです。

 

 うるしなんか飲んだら、すぐに死んでしまうと思われそうですが、ご住職はその部分についても語ってくださいました。

 

 うるしは肌につくと、かぶれてしまうのですが、口の中に入れてしまえば、かぶれることはなく、体の抗菌作用もあるのだそうです。

 

 真如海上人の衣替は6年に一度行われ、お脱ぎになったご衣服は、細かく切って御守として販売されていて、この真如海上人の御守を持っていると、様々な災いから守られるということです。

 

 真如海上人に手を合わせて、おりんを鳴らせて参拝し、即身仏御衣入御守を一体いただきました。

 

 

 

 祭壇には、徳川家の葵のご紋が……

 

 この大日坊瀧水寺は、徳川将軍家ゆかりの祈祷寺でもあるんです。

 

 三代将軍の徳川家光が疱瘡ほうそうを患った時に、旗本の久米助右エ門が主君の病気平癒の祈願のために訪れ、見事に家光の眼病は平癒したと言われています。

 

 

 これは、僕が大好きな徳川家康公の手形ではありませんか!!

 

 江戸時代において、この大日坊瀧水寺は隆盛を極めましたが、明治になってからは災厄が続きます。

 

 明治という時代は、全国のお寺にとって、とても生きづらかった時代だったように思います。

 

 明治政府による廃仏毀釈令により、大日坊瀧水寺は湯殿山を没収されて、湯殿山は神道の湯殿山神社の管轄となります。

 さらに1875年(明治八年)には、お寺の火災によって伽藍は焼失し、三体あった即身仏の内の二体が焼失、当時のご住職は無念の思いから命を絶たれたそうです。

 

 それに追い打ちを掛けるように、地すべりによる被災を受けるなど、これでもかとばかりの災厄に見舞われました。

 

 しかし、1936年(昭和十一年)に規模をうんと縮小して現在の場所にお寺を移してからは、世界中から真如海上人に参拝する目的で多くの人が訪れるようになったのだそうです。

 

 不思議なのは、真如海上人の入定の際の遺言です。

 

 生前、真如海上人は弟子達に、千日後に掘り起こした時には、別にお堂を建てて祀ってほしいと言い残されたのでした。

 

 その結果、明治八年の火災によって、他の二体の即身仏も本堂と共に焼失してしまいますが、真如海上人の即身仏だけは、ずっと生き永らえることになるのです。

 

 

 

 こちらは、三代将軍家光の乳母であった春日局が奉納した祈願文を入れた状箱です。

 

 春日局は当時に病床に伏していた二代将軍秀忠の病気平癒という名目で、自ら大日坊瀧水寺に詣でて、家光の将軍就任を祈願したと言います。

 

 

 

 大日坊瀧水寺に祀られている大黒天様……

 

 どういう訳かここ最近、大黒天様とのご縁がすごく強くなっているような気がします(笑)

 

 ご守護いただいていることに感謝して、しっかりと参拝させていただきました。

 

 さて、この後は宮城県岩沼市の金蛇水かなへびすい神社に参拝し、そのまま東京のニシーネスペースに戻ります。

 

 いよいよ明日のブログで、みちのくの旅もおしまい……

 

 最後の素敵な思い出を、作りたいと思います!!