昨日は久しぶりに、お二人のお客様の鑑定をさせていただきました。

 

 サロン ド シルフィーユ時代からのお客様で、一年半の長い休暇中の間にも、ずっと何度も僕のホームページを見ていてくださったんですね。

 

 あの一年半の間の僕のホームページは、本当にひどかったです。

 

 サロン ド シルフィーユ閉店のお知らせで「少し疲れたので、休養を取ろうと思います(^^;;」とか書いてあって、まるで「チ~ン、ご愁傷さまでした♪」みたいな感じでした(笑)

 

 今だから、全部笑い話ですけど……

 

 それにしても、こうやって再び、縁のあった人とつながれることを、本当に心から感謝しています。

 

 昨日、上級講座に参加してくださっているYさんから、とっても素敵な言葉を見つけたのでメールしますということで、その言葉が書かれたメールが来ていました。

 

 僕もその言葉に触れて、猛烈に感動しました!!

 こんな言葉です。

 

 地獄は豊か

 

 凡人は地獄を体験することができない。

 選ばれし者しか地獄を味わうことはできないのだ。

 だから、いま地獄を味わっているのであれば、それは豊かだと感じることだ。

 

 乗り越えられない課題は人生には訪れない。

 地獄を乗り越えると、驚くほどの力量が身につく。

 他者から必要とされる存在に成長するのだ。

 

 いかがでしょうか(^^)

 普通に生活している人には、ちょっと理解に苦しむ言葉かも知れませんが、これはまさに、人生の本質を突いた言葉だと思います。

 

 今から五年前の2019年の夏、京都の仁和寺で、観音堂の観音様の後ろ側の障壁に江戸時代の絵師・木村徳応によって描かれた「六道輪廻(りくどうりんね)」の障壁画の特別公開を見に行ったのですが、その六道絵を見た衝撃を思い出しましたね。

 

 この六道輪廻という思想は仏教の中の考え方で、この世を生きる者は、六道(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)の世界に何度も生と死を繰り返して、さまよい続けるという考え方です。

 

 岸本斉史さんの漫画「NARUTO」にも、六道仙人とか、ペイン六道という強敵がいて、天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道という6人で構成されているのですが、元ネタはこの仏教の思想です。

 

 それぞれの六道の世界観は、次のような感じです。

 

 六道の一番上位にある「天道」とは、善良な者が行く清浄な世界とされています。

 極楽浄土と天道とは同じようなものかと思いきや、仏教においては全く別の概念で、天道は快楽に満ちていて苦しみもないのですが、ちゃんと寿命はあって、やがて時が来たら六道のいずれかの世界に戻らなければなりません。

 

 二番目の上位にある「人間道」は、生病老死の四苦八苦や煩悩なんかに悩む世界です。

 さっきのYさんが紹介してくれた言葉の中の地獄は、この人間道における地獄であって、この後に説明する最下位の地獄道のことではありません。

 

 三番目の「修羅道」というのは、常に怒りの感情がわいてきて争いを繰り返す世界で、他人と争い合ったり、相手を蹴落としたりした人が落ちる世界です。

 ひどく嫌な世界だと思うのですが、それでも上から三番目で、六道の中では半分よりも上位に当たるんですね。

 

 四番目の「畜生道」は、動物に生まれ変わる苦痛の中で生きる世界です。

 人間としての理性がなくなり、本能のままに生きる弱肉強食の世界に閉じ込められます。

 

 五番目、下から二番目にある「餓鬼道」は、過度に欲望の強い人が落ちる世界で、痩せ細った餓鬼の姿で、常に飢えと乾きに苦しむ世界です。

 

 そして一番下位にある「地獄道」は、悪行を犯した人間が落ちて罪の報いを受ける世界で、その罪によって裁かれ、獄卒の鬼から地獄の責め苦を受け続けなければなりません。

 

 仏教において、この六道輪廻の無限ループから抜け出すには、一切の煩悩やけがれがない理想の世界である極楽浄土へ行くしかありません。

 

 実はこの極楽浄土への道がつながっているのは、一番上位の天道ではなく、我々が生きているこの世界である人間道の方なんです。

 

 一番上にある天道は、幸せばっかりありすぎて、魂が向上しない分、極楽浄土へも行けないんですね。

 

 その分、この我々がいる人間道は、上は天道から、下は地獄道まで、いろいろなエッセンスが詰め込まれています。

 この人間道で起こる全てのことが、この六道のいずれかの模倣であるとも、言えなくもありません。

 

 とすれば、この世(人間道)の天国の幸せは、おそらく天道の世界の幸せほどに究極なものではないでしょうし、逆に、この世の地獄というものは、地獄道の獄卒の鬼の責め苦に比べたら、はるかにマシです。

 

 仁和寺の観音堂の六道絵の地獄絵は、それはもうすさまじかったですね(笑)

 

 この手のものでは、恵心僧都(えしんそうず)の「往生要集(おうじょうようしゅう)」が有名で、それを元に描かれた「六道絵」もたくさん存在していますが、地獄道の描写については、ブログで細かく解説するのもはばかられるようなグロさです。

 

 もちろん、本当に地獄なるものがあるのか…… というのは論点になると思うのですけど、僕はきっと、これはおそらく、覚めることのない夢のようなものではないかと、思うんですよ。

 

 唯物主義者の人は、死んで肉体が動かなくなったら、脳だって機能しなくなるのだから、夢なんて見ることはない…… と考えるかも知れませんが、僕はそう単純に言い切れるものではないと思うんですね。

 

 だって、そう思っている概念自体が、我々の体の五感を通したほんの一部分の認識に過ぎない訳ですから……

 

 とりあえず六道なるものがあるとして、ここで語られている地獄道に比べたら、世界の先進国における「この世の地獄」なんて、せいぜい1000分の1ぐらいの苦しみだと思います。

 治安がしっかりしていますから、地獄道の獄卒の鬼の責め苦みたいなヒドいことは、起こらないんですね。

 

 この世の地獄なんて、せいぜいホメオパシーのレメディみたいなもんです(笑)

 

 そして、この「人間道における地獄」を体験することで、背後にある学びのエッセンスを吸収して、心が豊かになれる……

 

 人間は、苦しいことや辛いことを体験したら、性格がいびつになって腐ってしまうものだ…… と考える人もいるかも知れないし、僕もその気持ちは分かるのですが、心が腐ってしまうか、心が豊かになれるかを決めるのは、結局最後は自分次第だと思うんです。

 

 僕もこの一年半で学んだことですけど、目の前の苦しみを他の誰かのせいにしてしまうと、心が豊かにはなれないんですね。

 でも、その苦しみは、必ず人生の学びの糧になると信じると、本当に心が豊かになります。

 

 そしてやがて、その人は、いつしか本当に他者から必要とされる存在になっているはずです。