今日の東京は、日差しが強くて、とても気持ちよいです。
夏至間近でお昼の時間がうんと長い分、何だか得した気分になります。
今日はこれから、Online自然派四柱推命入門講座の最終日……
質疑応答の時間が全然取れていないので、追加講座をやらなくてはと思っています。
ちなみに昨日は、朝から晩までずっと一日中、土曜日のOnline中級講座のスライドに使う絵をペイントで仕上げていました。
ペイントソフトを使って、絵をドット単位で色修正していますあら、目がチカチカして痛いです。
確実に視力が悪くなっているのが、分かりますね(笑)
でも、こうして好きな仕事に没頭できて、今、本当に充実した人生を送らせていただいています。
最近ふっと「ようやく、許されたのかな」みたいな感覚になるんですよ。
昔はそんなこと、感じたこともなかったのですが……
キリスト教なんかで「神よ、我が罪をお許しください」と祈りを捧げるようなシーンがあると思うのですが、少し前まで、僕にはあの感覚が全く分からなかったんです。
一体、何を許してもらわなきゃいけないんだ…… みたいに反発していましたね。
「原罪」という言葉も嫌いでしたし、どうして人間がそんなに卑屈にならなきゃいけないんだ、とか思っていました。
キリスト教の人からしたら、神への冒涜ですね。
そのくらい不遜な人間だったと思います。
ただ、最近になって、僕のその捉え方は一面的にしか物を見られていなかったなあ…… と気づくようになったんです。
やっぱり、僕にとって、去年の今頃までの一年半の休養中の時期というのは、たくさんの学びを得た、ありがたい時期だったなあと改めて思うのですが、あの時期は、まるで心が金縛りにあったみたいに、恨みの感情に縛られてしまっていたんです。
それまでの僕は「恨みを抱いているような時間は、もったいない」とか「思考を変えれば、どれだけでも運は開く」とか、偉そうなことをブログで書いてきたり、鑑定で話してきたりしていましたし、頭ではきちんと理解していたつもりでした。
だからあの頃も「早くそんな恨みなんか忘れて、活動を始めよう」と、何度も自分に言い聞かせていたのですが、どうしても、その恨みの思考から抜けられないんですよ。
こういった状態のことを、きっと「罪が許されていない状態」と言うのだと思います。
ところが今では、恨みの気持ちは全く湧いてきませんし、むしろあのお陰で今の自分がある、というくらいに思えています。
こうも極端に、思考というものは変わってしまうのですね。
目に見える世界においては、奇跡的なことが次々と起こって、すっかり仕事が元の状態に戻ったから…… ということで、その思考の変化の理由を説明できてしまうのですが、何となくそれだけではないような気がします。
現実世界で起きた出来事だけに意識をフォーカスして、それを人のせいにしている間は、分からなかったのですが、実はある時に「これは前世で、自分が誰かに同じことをやったな」と、感じる瞬間があったんです。
悪意ではなく、自分の生活を守るためだ…… などと、前世の自分が言い訳しているような感覚が、幾度となく心に伝わってくるんですね。
そして、もしかしたら自分は、この時の罪をずっと受けたかったんだ…… とまで、感じられるようになったんです。
自分の魂に、前世の学びの足りなかった部分をしっかり認識させるために、このキツい経験をすることを欲していたんですね。
それからしばらくして(この時すでに、ニシーネスペースができて、仕事が再び軌道に乗っていましたが……)ふっと「自分が許されたような感覚」になって、これまでどうしても抜け出せなかった、恨みの気持ちの呪縛から解放されていました。
その時「これが、罪を許される」ということなのか、みたいな感覚を体験したのです。
現実世界で起きた出来事だけに、意識をフォーカスしている間は気づけないのですが、人生の本質というのは、「実際に何があったか」ということ以上に「その出来事に対して、自分が何を感じたか」によって、まるで違ってきてしまいます。
そして、その感じ方によって、その先の未来の世界は雲泥の差が出てきます。
だから、ポジティブ思考を心掛けることは、とても大切なのですけど、あの時の僕も体験したのですが、そういったことは自分の意識だけでは完全にコントロールできなかったりします。
やっぱり、何か大きなものから「許される」ことが必要なのでしょう。
別にキリスト教に入信した訳ではありませんが、キリスト教の懺悔の言葉の意味が、僕にも少しは分かるようになりました。
許されるというと、何だか罪人みたいで嫌ですけど、感覚としては「許可がおりる」というものに近いかなという気がします。
そして、何か大きな存在からの許可がおりた時、人は縛られていた感情の支配から自由になって、この世界で大きなことがやり遂げられるようになるのでしょう。