いよいよ、史記の范雎(はんしょ)のお話も、佳境に入ってきました。

 

 この話は、史記列伝に収められている「范雎・蔡沢(さいたく)列伝」というタイトルのお話……

 実は、范雎の他に、蔡沢という人もこの物語の主人公なのです。

 

「キングダム」の漫画やアニメをご覧になった方は、蔡沢(さいたく)という一癖ありそうな老人が、あそこに登場したのを覚えていらっしゃるかも知れませんが、まさにその人のことです。

 

 若い頃の蔡沢は、人相見に自分の運勢を見てもらったことがあります。

 当時の蔡沢は、仕官しようと諸国を巡るも、どこに行っても採用されず、東の果ての燕(えん)の国で落ちぶれていましたが、人相見にこう聞きました。

 

「私が富貴を得るのは分かっておる。ただ寿命だけはわからないので、それを教えてもらいたい」

 

 人相見は蔡沢に「貴方様の寿命は、この先43年でしょう」と答えました。

 

「うまい米の飯と肉を食べ、馬を走らせて諸国を駆け巡り、黄金の印を懐に入れて、紫の印綬(勲章を着けるための組紐のこと)を腰に結び、君主に拝謁してお辞儀するような身分となって、裕福な暮らしができるのであれば、43年の寿命でも十分だ」

 

 蔡沢はそう答えると、そのまま西へと向かいました。

 

 旅の途中、趙(ちょう)の国に仕官しようとして追い払われたりとか、盗賊にあって身ぐるみ剥がされたりとか、いろんなトラブルに遭いましたが、秦(しん)の国の宰相の范雎が、鄭安平(ていあんへい)と王稽(おうけい)の件で恐懼(きょうく)しているという噂を聞くと、さらに西へ向かい、秦の国へと乗り込んできました。

 

 そして、注目されようと、人を使って次のような流言を流しました。

 

「燕からやって来た論客の蔡沢は、天下にまれに見る知謀の持ち主であり、『もし自分が秦の王様に謁見するようなことがあれば、宰相の范雎なんかはたちまち追い込まれて、私に地位を奪われてしまうだろう』と公言しているらしい」

 

 その噂を聞きつけた范雎は、この蔡沢という人間は何者なのか確かめてやろうと、使者を送って呼びつけました。

 

 范雎から呼びつけられた蔡沢は、軽く会釈すると、尊大な態度で范雎の前に座りました。

 

「そなたは私よりも自分の方が、この秦の国の宰相の地位にふさわしいと公言しているそうだが、それはまことの話か」

 

と范雎が問うと、「いかにも、その通りです」と蔡沢はふてぶてしく答えました。

 

 范雎は蔡沢の横柄な態度に対し、腹に据えかねる気持ちをぐっとこらえ、

「その訳を聞こう」と静かに言いました。

 

 蔡沢はこう語ります。

 

「ああ、あなた様はまだお気づきではないのですか…… 春夏秋冬の季節も移ろいゆくものであれば、役割を成し遂げた者も、また去っていくものであります。

 それにしても、人として生まれたからには、体は健康であり、心も健やかで行いも立派であること、それこそが士たる者の理想ではないでしょうか?」

 

 范雎は「その通りである」と言いました。

 

「仁を本質として義を守り、徳を実践して、天下の人々に親しみを抱かれ、敬愛されるような存在となる…… これこそが知恵のある士が心に期していることではないでしょうか?」

 

 范雎は「まさにその通りだ」と言いました。

 

「富貴栄達し、長生きして天寿を全うし、天下の人々が自分の伝統をずっと継承し、名実共に賞賛されて、天地と共に終始する。これこそ道徳の本質であり、聖人の善なる事業というものではないでしょうか?」

 

 范雎は「その通りである」と言いました。

 

 蔡沢は大きくうなずいて、いよいよ范雎を追い詰めようと、話を切り出してきました。

 

「あの秦の商君(しょうくん)、楚(そ)の呉起(ごき)、越(えつ)の大夫種(たいふしょう)のような者たちの末路は、士たる者の理想と言えるようなものでしたでしょうか?」

 

 この三人は、仕えている君主や国のために、自分に身の危険が及ぶのも恐れずに尽力したのですが、結局最後は不幸な死に方をした人達です。

 

 范雎は少しムキになって、「その三人の生き様が、なぜ士たる者の理想とならないと言うのか」と、三人の生き様の立派な部分を語り、さらにこう言いました。

 

「この三人のような生涯は、まさに最も模範とすべき生き様である。立派な人間というのは、忠義を全うするためには死をも恐れず、生きて辱められるよりも、死んで栄誉を得るのを選ぶものである。自分の生き様が義に叶っているかどうかが真に重要であって、その結果、命を落としたとしても恨む所はないのである」

 

 蔡沢は「はたして、そうでしょうか」と静かに言って、次のように述べました。

 

 「比干(ひかん)は忠臣の鏡のような人でしたが、主君の紂王に殺され、伍子胥(ごししょ)は知恵者で主君の夫差を覇者にしましたが、夫差から死を賜わり、申生(しんせい)は孝行息子でしたが、父の献公は愛妾の驪姫(ちょうき)の言うことを信じて、申生を殺そうとし、結局、自ら命を絶ちました。

 人々は、彼らを不幸な目に遭わせた主君を賤(いや)しみ、哀れな死に方をした彼らを憐れみましたが、結局の所、国を全うするには至っていないのです。

 

 商君・呉起・大夫種も、確かに臣下としては立派でしたが、その君主が立派ではありませんでした。 

 

 そもそも、忠義を全うして死ぬことが最も模範だと言うのでしたら、そのように死んでいない、孔子や管仲や微子(びし)は、大した人物ではないということになってしまいます」

 

 そして、こう結論づけました。

 

「自分の命も全うできて、さらに素晴しい行いをする者こそが最も上なのです。どんなに素晴しい行いをしたとしても、死んでしまう者はその次なのです。名が罵(ののし)られているのにも関わらず、身だけを安全に保っているというのが、最も下です」

 

 范雎は「なるほど」と言いました。

 

 すみません…… どんどん長くなってしまうので、この続きは次回のブログに回します。

 

 次回、蔡沢は、范雎に対して、じわりじわりと言葉で締め上げていきます。

 

 (2012/5/01「大きな役割を持つと、運気の良い人としか組めない」をリメイク)