今日もまたこりずに、史記の范雎(はんしょ)のお話です。

 

 この史記が書かれたのは、今から二千年以上も昔であるにもかかわらず、ここに登場する人物が織りなす人間模様は、現代に生きる我々に、本当にたくさんのヒントを与えてくれます。

 

 昨日のブログに書いたようなあらましで、須賈(すか)は肌脱ぎになって(古代中国では「肉袒(にくたん)」といって、上衣を片脱ぎして肌を露出させることで、謝罪や降伏の意を示しました)、膝(ひざ)で歩くようにして、大勢の従者を従えた范雎の前へと進み出て、頭を地面にすりつけました。

 

「それがしは、貴方様がこのように青雲の志をとげて天下に名をなされるとは、思ってもおりませんでした。大変なバチあたりでございます。以後はもう、二度と天下のことに口をはさもうとはいたしません。

 それがしには、釜ゆでにされて当然の罪がございますが、どうか、未開の地へと身を隠させてください。生かすも殺すも、お心のままに従います」

 

 須賈を見下ろしながら范雎は、吐き捨てるように「お前の罪はどれほどじゃ」と言いました。

 

「それがしの髪の毛をつなぎ合わせましても、まだ足りますまい」

 

 范雎の脳裏に、魏(ぎ)でひどい目に遭わされた五年前の出来事がよみがえりました。

 

 そして、ここぞとばかりに、須賈にそれをぶつけました。

 

「お前の罪は三つあるわ。

 私は魏の国で生まれた人間であり、先祖の墓所も魏にある。斉(せい)王からの贈り物を受け取らず辞退したのも、それゆえであるし、先祖から仕える国を裏切ろう思ったことなど、それまで一度もないわ。

 それをお前は、私が斉に内通しているなどと、魏斉(ぎせい)に悪しざまに言った…… これが一つ目じゃ。

 

 そしてお前は、魏斉が私を辱めるために便所に置き去りにしたのを、止めもしなかった…… これが二つ目。

 

 さらに、魏斉の客人達がかわるがわる私に小便をかけていったが、それを見て見ぬふりをした。ひどい仕打ちではないか。これが三つ目の罪じゃ。

 

 しかしお前は私を見て、昔ながらのなじみとあわれれんでいたわり、食事を出して、自分が着ている絹の綿入れの服を差し出した。

 それゆえ、命までは取らぬ」

 

 須賈は平頭して、その場を立ち去りました。

 

 范雎はそれでもイライラするので、昭襄王(しょうじょうおう)に言上して、須賈の使者の役目を解き、須賈を帰国させるように命じました。

 

 須賈が范雎の屋敷に、お別れの挨拶に出向くと、范雎は諸侯からやって来た使者を残らず呼んで、座敷で盛大に宴会を開き、豪華な食事と酒をふるまいました。

 

 しかし、須賈は庭先に座らされて、馬の餌が目の前に置かれ、入れ墨をした二人の馬丁が須賈の両脇に立って、馬に餌を与えるように食べさせました。

 

 やがて、范雎は須賈の前に立つと、こう言いました。

 

「国元に帰ったら、すぐに魏斉の首を持って来いと魏王に伝えよ。さもなくば、魏の都の大梁(たいりょう)を、秦の大軍で攻め落とすぞ」

 

 須賈は、恐れおののいて立ち去りました。

 

 さてこの後、范雎に恨まれた魏の宰相・魏斉の運命はどうなるのか……

 

 明日のブログに続きます。

 

(2012/11/03パリブログ「恨みを忘れて、初めてわかることがある」をリメイク)