先日、高田馬場に用事があったのですが、その帰り道に道に迷ってしまい、気がついたら大きな神社の鳥居の前にたどり着いていました。

 

 

 

 鳥居に書かれている「穴八幡宮」という文字を見て、高田馬場駅の前のバス停の柱に貼られていた「穴八幡宮は〇〇停留所下車」と書いた貼り紙のことを思い出しました。

 

 遠くから、電車とバスを使って、穴八幡宮に参拝にいらっしゃる方も多いのでしょう。

 

 この日はちょうど冬至の前日でした。

 

 僕は昔から方向オンチなので、こんな風に道に迷ってしまうことがよくあります。

 

 その時は時間に追われていたので、それ以上のことは考えず、そのまま道沿いに歩いていきました。

 

 すると今度はさっきより小さめの鳥居があって、さらにその先の曲がり角に、穴八幡宮の正面鳥居がありました。

 

 

 

 こちらが正式な入口で、僕が最初に見た黒い鳥居は、北参道の鳥居だったのですね。

 

 立札に「一陽来復」の御守があると、書いてあります。

 

 この時の僕は(まだ、一週間前の話ですが)、穴八幡宮のことを何一つ知らず、失礼にも「明日冬至だから、イベント的に『一陽来復の御守』とか作ったのかな……」などと思ってしまったのですが、実はそうではありませんでした。

 

 後から調べてわかったのですが、穴八幡宮と言えば「一陽来復の御札と御守」で、とても有名な神社だったのです。

 

 こうして、冬至の前日にこの場所に導かれたのもご縁をいただいたから違いないと思い、後日、穴八幡宮に参拝させていただくことにしました。

 

 平安時代の末期、源義経が奥州の乱を平定した凱旋のおり、この場所に兜と太刀をおさめ、氏神八幡宮を勧請することにより八幡神社となりました。

 

 時代は流れ、江戸時代に、宮守の庵を造営する為に山すそを切り開いたら、そこに神穴が出現し、その穴の中からは金色の御神像が見つかったとのこと……

 それでこの八幡神社は「穴八幡宮」と呼ばれるようになったそうです。

 

 この噂は、またたく間に江戸幕府三代将軍・徳川家光の知る所となり、やがて穴八幡宮は江戸幕府の庇護を受け、江戸城の総鎮護の神社と呼ばれるようになりました。

 

 穴八幡宮に参拝をさせていただいた後、社務所で、お財布の中に入れる御守を授かりました。

 

  

 

 穴八幡宮の鳥居の外に出ると、そのすぐ隣りに地続きになっている「放生寺(ほうしょうじ)」という小さなお寺がありました。

 

 穴八幡宮に比べ、敷地もうんと狭くて小さなお寺なのですが、どうやら江戸時代まで、この放生寺が穴八幡宮を管理していたようです。

 

 こういったことは神社仏閣の世界ではよくあることで、例えば、出雲大社などは、鎌倉時代には鰐淵寺(がくえんじ)というお寺に管理されていました。

 こういった神社を管理しているお寺を別当寺(べっとうじ)と言います。

 

 現代のように、神社とお寺がハッキリと分けられるようになったのは、明治時代の「神仏分離令」以降のことで、昔の日本は「神仏習合」でしたから、お寺が神社を管理しているのは、珍しいことではありません。

 

  

 

 この放生寺では「一陽来」ではなく「一陽来」となっていますね。

 

 歴史を紐解いてみると、どうやら一陽来復(福)のお守りは、放生寺が先に始めていたようです。

 

 明治政府は「平田派国学者」の影響を受けて、お寺より神社をうんと優遇する政策をしていましたから、お寺はどうしても損な役回りになってしまいます。

 

 これは日本中のお寺に言えると思うのですが、神仏分離令によって、これまで築いてきた由緒あるお寺の歴史が、日の目を見ないような形に改変されてしまっているのですね。

 

 とはいえ穴八幡宮と放生寺は、親戚同士のような関係であったことから、神仏分離令の後でも、お互いとても仲が良いそうです。

 

 放生寺にも参拝して、お線香を捧げさせていただきました。

 

 僕にとって、今年は本当に素晴らしい一年でした。

 

 来年も皆さまにとって、素晴らしい年となりますように……