朝、目覚めて、ベランダの外に出て、隣りの敷地のキンモクセイの香りに包まれながら深呼吸……

 この一年半の間、荒波をくぐり抜けてきましたが、今は本当に安らかな満たされた気分です。

 

 昨日のブログの話の続きになるのですが、先に僕の考えを言ってしまうと、未来には「ほぼ確定されている未来」と「全く何も決まっていない未来」の二種類が存在すると思うんです。

 

 全ての未来がこの二種類に分かれるというのではなく、全ての未来がこの二つの中間にあって、その割合が異なっている感じですかね。

 

 例えば10のうち、確定要素が8で不確定要素が2の未来なら、大方は決まっている未来ということになりますし、確定要素が1で不確定要素が9の未来なら、ほとんど決まっていない未来ということになります。

 

 この問題は、未来が決まっていたかどうかを「何を基準にして、推し測るか」というのが問題になってきます。

 それゆえに、時間軸に縛られたこの三次元世界の中で、未来が決まっているかどうかを明確にすることはできませんが、この基準をとりあえず「自分が予想していた未来」とか「自分がこうありたいと思う未来」というものにして、これに絞っていえば、未来の確定要素は、時間と難易度に比例していると考えることができると思います。

 

 先の未来の話であればあるほど、不確定要素が高くなりますし、その未来を望んでいる本人にとっての難易度が高ければ高いほど、やはり不確定要素が高くなります。

 

 昨日のブログで少しご紹介した「マイノリティー・レポート」は、2054年の近未来が舞台なのですが、見ている人を映画の中に引き込んで離さない、僕の中では五本の指に入るくらいの面白い映画でした。

 

 その映画の中で、トム・クルーズ扮する主役のアンダートン刑事が「未来というものは、確定している」ということを論証しようと、ビリアードの球(殺人予知システムの被害者と犯人の名前が刻まれる球)を台の上に勢いよく転がすんです。

 

 「球が転がり続けることは、完全に確定されている未来であり、一秒後には台から落ちることも、すでに確定している」ということを、確定された未来を疑問視する人に伝えようとしたんですね。

 

 もちろん、これが100%確定している未来とは限りません。

 いきなり地震が起きて、台が傾いて球が逆方向に転がる可能性だってありますから(笑)

 でも、ちゃんと数値化することは難しいですけど、おそらく99.9%まで球は台を転がって、一秒後には下に落ちているはずです。

 

 この場合、予測する未来はきわめて近い未来ですし、その未来を実現させるための難易度はきわめて低い(球を転がして、台から落とすだけ)ですから、これは「確定された未来である」と言い切ってしまっても、嘘にはならないでしょう。

 

 でも、予測する未来が先のことであればあるほど、また難易度が高ければ高いほど、それが現実になる確率はどんどん低くなっていきます。

 

 逆に言えば、先の未来であればあるほど、変更しやすいということになります。

 

 例えば、毎日の不摂生が溜まっていて、その不摂生がすでに生活習慣になっていて、このままだと10年後に大病を患うという未来があったとします。

 

 でも、その10年間の間に、その生活習慣を変えるなり、体質改善をするなりすれば、その未来は確実に変わります。

 

 ところが、一ヶ月後に大病を患うという未来が確定していて、もうすでに体に自覚症状が出ているとなれば、この未来を変えるのは、そうたやすいことではありません。

 

 だから、人生というものを長いスパンで考えて、計画的な人生を送ろうとする人は比較的、幸せな人生を歩みやすいとも言えます。

 

 僕はいつも行き当たりばったりですから、この部分に関しては全くダメですね。  ……大いに反省

 

 とはいえ、幸せな人生を歩むための基準というのは、これだけではありません。

 

 すごく計画的に計算して人生を送ろうとしているのに、あまり幸せをつかめていないように見える人がいるのも、また事実ですし……

 

 昨日のブログで、僕自身の未来は「何かを成しとげているか、それとも中途半端なまま全く何も成しとげられないかの両極端」だと思っていると書いたのですが、実はそれには理由があります。

 

 もちろん、誰でも未来というのは両極端な状態だ、などとも思っていません。

 

 これに関しては、また明日のブログで語ってみたいと思います。