今朝の東京は曇り空……

 

 昨夜、一人で盛り上がって、夜中の3時ぐらいまで四柱推命講座のスライドを作り込んでいたせいもあって、まだ眠くて夢見心地です。

(ブログを書いている現在は、朝の9時半)

 

 今日のブログは、昨日書き切れなかったフランクルの考え方の中で、「これがフランクルの真骨頂」と一般的に言われているものを書き記して、フランクルについてのブログは、それで終わらせてしまうつもりだったのですが……

 

 あれ(昨日のブログ)だと、フランクルの言いたかったことが20%ぐらいしか伝えられていない気がしたので(僕自身、昨日の段階で、フランクルを二割ぐらいしか理解できていなかったので……)少し、補足させてください。

 

 というより、こんなつたないブログを開いて読んでくださっている皆さま、本当に感謝ですm(_)m

 

 昨日のブログに書いたように、フランクルはナチスの収容所の中で、さまざまな人間が極限状態に追い詰められた時にどう行動するか…… というのを見てきた訳ですけど、その中で、死んでいく人間の食料や靴を奪って、自分の所有物にする大多数の人間と、ほんの一握りですが、自分が瀕死の状態でありながら、仲間に自らの食料や励ましの言葉を与え続けた人がいました。

 

 あの書き方だと、人間というものには優劣があって、極限状態に追い込まれた時、大多数の人間がモラルをなくして、動物のような精神状態になってしまう中、一握りとはいえ、自分を犠牲にしてでも他者のことを思えるような、本当に高潔で立派な人がいる…… という話で終わってしまっています。

 

 もちろん、そのとらえ方でも間違いではないと思うのですが、さっき夢見心地でまどろみながら、僕はまだまだフランクルへの認識が浅かったなあと考え直しました。

 

 今朝みていた夢は、すごく印象が強くて、未だに覚えているんですよ。

 

 僕がまだ十代の中学生か高校生くらいの少年で、学校で選抜されたメンバーとして、テニスの大会に出る当日の朝で、あわただしく出かける支度をしているんです。

 

 母親がまだ生きていて、僕が出かける支度を手伝ってもらっているのですけど、急に泣きたい気持ちになって、母親の胸に飛び込んで泣いてしまうというストーリーです。

 

 それで、自分がこう言っているんです。

 

 「なんで、涙が出てくるのかわからない。テニスの大会ではどうせ一回戦で負けるだろうし、別に負けたって構わないと思っているし……」

 

 ちなみに僕は、生まれてこの方、一度もテニスをやったことがありません(笑)

 

 すると、母親が「かんじてい」って、言うんです。

 

 僕が「かんじ亭…… それって何?」みたいに聞き直すのですけど、「かんじてい かんじてい」と、その言葉が何度も頭の中をリフレインして、目が冷めました。

 

 不思議な夢でした。

 「黄色いテニスボールは、人とのコミュニケーションを表す」とか「本当は負けず嫌いで、泣きたいくらいストレスを抱えている」みたいな夢の分析は、ここではとりあえずやめておこうと思います(笑)

 

 それで、さっきの昨日のフランクルのブログの話に戻るんですけど……

 

 ナチスの収容所で、自分が瀕死の状態でありながら、仲間に自らの食料や励ましの言葉を与え続けようとする人というのは、確かに立派な人ですし、それに比べて、死にそうな人間のパンや靴を奪っていく人間というのは、あさましいです。

 

 もしも、人が自らの意志で態度を決められるというのなら、前者を選べたなら理想です。

 実際にそんな極限状態に追い込まれていないので、何とも言えませんが、僕もせっかくこれだけのことを教わったのだから、できる限り前者を選びたいです。

 

 でも、今朝になって、フランクルの言葉の真意は「人間は自らの意志で、理想とする生き方を選ぶことができる」ということだけにとどまらず、その奥にもっと深い意味が隠されているかもしれない…… と思うようになりました。

 そして、こう考え直したんです。

 

 自分が瀕死の状態でありながら、仲間に自らの食料や励ましの言葉を与え続けた人というのは、目に見えない何かのつながりを確信することができた「本当に幸せな人」なのかも知れないと……

 

 逆に、死にそうな人間のパンや靴を奪っていく人というのは、残念な人というよりは、そういったつながりを確信することができなかった「不幸な人」なのかも知れない…… と、とらえ直してみました。

 

 フランクルの著書の「夜と霧」の中で、すごく胸を熱くする話があるんです。

 

 この話はそんなに重要ではないと思っていたので、今回のブログでは省略するつもりでいたのですけど、今朝の夢を思い返して、もしかしたら、今日のブログで紹介する予定だった「フランクルの真骨頂とされている話」より、重要な話かも知れないという気がしてきました。

 それを少しだけ、書いてみたいと思います。

(すみません。フランクルについてのブログ、もう何日か続けさせてください……)

 

 ある日、フランクルが仲間の囚人達と一緒に、降り積もっている雪の中を、ぼろきれのようなペラペラの作業着とボロボロの靴で、何キロも行軍させられていた時のことです。

 

 凍死寸前の極限状態のフランクルは、その時、心の中で、愛する妻と会話したそうです。

 フランクルは、こう回想します。

 

 あの時確かに、妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。眼差しでうながして、自分を励ますのが見えた。妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも、明るく私を照らした。

(ヴィクトール・フランクル著「夜と霧」参照)

 

 悲しいことに、フランクルの妻・ティリーは24歳の若さで、命を絶たれていました。

 

 今朝、僕が見ていた夢の中でリフレインしていた「かんじてい」という言葉の意味が、目が覚めてからも分からず、「かんじ亭…… 何かそんな名前のお店あったっけ?」みたいに思っていたのですが、「感じてみて」という意味の言葉かも知れない…… と思ったら、急に腑に落ちました。

 

 夢の言葉が自分の潜在意識から出てきた言葉だというのなら、すぐに自分で意味が理解できそうなものですが…… まあ、このことは、今は深く考えないでおこうと思います。

 

 今日、書く予定だった「フランクルの真骨頂とされている話」なのですが、書くのはもう少しだけ、先のブログになってしまいそうです。

 スミマセン…… 訳のわからない方向に暴走してしまいそうですが、また明日、このブログの続きを書かせてください。