今朝の夢では、自分が中学生の年頃に戻っていて、締め切りの時間に追われながら、必死で学級新聞を書いていました。

 

 寝ても起きても、何だかいつも締め切り時間に追われながら生きているような気がします。

 

 最初は、ヴィクトール・フランクルのロゴ・セラピーについて、さらっと記してみようと思い、書き始めたお題のブログですが、思ってもいない方向に、どんどん引っ張られていきます。

 一体どこへたどり着くのか、自分でもよく分かっていません(笑)

 

 さて、昨日のブログの続きですが、フランクルにとって妻のティリーは、特別な絆で結ばれた存在でした。

 

 当時、ナチスの支配下であったチェコのテレジン収容所で強制労働をさせられていた二人ですが、最初、フランクルだけがアウシュヴィッツに移送されることが決まったんです。

 妻のティリーは軍需工場の作業員として、そのままテレジン収容所にいられたのですが、フランクルが止めるにもかかわらず、ティリーはフランクルと一緒にアウシュヴィッツへ行く道を選び、ナチスに自ら移送を願い出て、不幸にも特例で認められてしまいます。

 

 とはいえ、アウシュヴィッツで二人は、別々の収容所に送られ、その後、二度と会うことは叶いませんでした。

 

 フランクルが雪の中を行軍させられている時、妻・ティリーの面影を見たのは、そののちの出来事です。

 

 戦争が終わって、強制収容所から解放されたフランクルは、ティリーが発疹チフスによって、言葉にできないような、むごい亡くなり方をしたことを知ります。

 

 その後、ティリーの家族に送った手紙には、「短いティリーとの結婚生活だったが、これほどまでに完全な幸福に満たされたことはなかった」ということや「あてもなくふらふらと、ティリーの生まれた家の前を通りすぎたり、ティリーと一緒に散歩をした『ベートーべンの小径』を歩くと、まるで小学生のように泣いてしまう」といった内容が書かれています。

 

 フランクルにとって、まさにティリーは輪廻を超えたレベルの特別な人だったのでしょう。

 二人の心は、精神的に本当に深く結ばれていました。

 

 フランクルは雪の中で、愛する妻・ティリーの面影を見て会話をし(昨日のブログ)、その時に自分が感じたことを、次のように語ります。

 

 その時、ある思いがわたしを貫いた。これまで何人もの思想家がその生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげたある真実が、生まれてはじめて骨身にしみた。
 それは「愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ」という真理である。
 (中略)愛によって、愛の中へと救われること…… 人は、この世にもはや何も残されていなくとも、心の奥底で愛する人の面影を思い起こせば、ほんの一時にせよ、至福の境地になれるということを私は理解した。そして愛とは、生身の人間の体とはほとんど関係なく、愛する者の精神的な存在そのものに深く関わっている、ということを知った。

 愛する妻の存在が自分と共にあること…… これは、妻の肉体が存在するかどうかとか、妻が生きているかどうかということとは、無関係なことなのだ。

(ヴィクトール・フランクル著「夜と霧」を意訳)

 

 とてつもなく深い言葉です。

 

 妻を深く愛しているはずなのに、肉体が存在するかとか、妻が生きているかとか関係ない…… この部分だけは、少し頭がこんがらがりそうになります。

 

 この部分の記述については、人間の肉体と、精神とか心といったものをセパレートして考える必要があるかも知れません。

 

 フランクルは、「本物の愛とは、肉体の刺激とはほとんど関係なく、心の奥底で深くお互いが結びつくことによって生まれるもので、究極にして最高のものだ」と語っています。

 例え、自分の身が、ナチスの強制収容所のような生き地獄の中におかれていても、愛の中へと救われることができる…… と。

 

 このフランクルが体験した内容を「フランクルは妻の幻想を見て、その心の作用によって救われた」などと頭だけで考えてしまうと、ちょっと違ったものになってしまいます。

 

 間違いなくフランクルはこの時、時空を超えて妻のティリーに会い、会話したのでしょう。

 もちろん、現実の世界で肉体を通して会話した訳ではありません。

 とはいえ、精神の世界において、こういったことは何ら不可能なことではありません。

 

 ルドルフ・シュタイナーの著書には、霊的なものを扱っている本が多いのですが、このフランクルの体験と少し通じる記述があったので、抜粋してみます。

 

 ある人を愛しているとき、身体感覚で感じとれるものだけを愛しているわけではない。

 死とともに知覚できなくなるのは、身体感覚で感じとれるものだけだから、身体感覚を単なる手段として向き合っていた当の愛す人間同士は、死後になっても互いに見えている。

 その人間をはっきりと見ることを妨げている唯一のものは、身体器官で満足されうるような欲望の存在である。

(ルドルフ・シュタイナー著「神秘学概論」参照)

 

 ここでシュタイナーが述べているのは、死後の世界の話ですが、この話は生きている我々にも当てはまります。生きている人間は身体器官がある分、体の感覚(五感)を通すことで、相手を知覚することができます。

 しかし、身体器官による欲望に溺れてしまうなら、相手の精神的な本質とのつながりが妨げられて、霊的には相手がはっきり見えなくなってしまうと、シュタイナーは言いたいのでしょう。

 

 フランクルが妻と会話をしたように、肉体を超えた形で誰かとコンタクトをとるのと、いわゆる精神疾患による幻覚や、単なる「気のせい」といったものと明確に区別するのは、とても難しいです。

 

 だから、会話ができない相手とやみくもにコンタクトを取ろうとするのは、危険を伴う部分も多いと思います。

 

 夢の中で母親が何か言っていた…… と言っても、それは本当に母親が何かのメッセージを送っていたのか、単に夢の中の出来事だったのかは、正直、生きている人間には分かりません。

 夢というのは、その時の体調の影響をかなり受けますし、実態の分からない不確かなものです。

 

 とはいえ、例え会話ができなかったとしても、これまでの人生で強い絆で結ばれていた者同士というのは、間違いなく、精神の世界の深い部分において、しっかりとつながっているはずです。

 例えそれが証明できなくても、僕はそれで良いと思っています。

 

 さて、大変お待たせしました。

 明日はいよいよ、フランクルの真骨頂とも言える言葉について、つづりますね。