今日のブログも引き続き、魯仲連(ろちゅうれん)先生のお話です。

 

 ちなみに、有名な中国の代表的詩人といわれる李白も、この魯仲連のことを尊敬し、その清廉潔白な生き方を自分の理想としていました。

 

 さて、あまりに強大になった秦に恐れをなした魏の将軍である新垣衍(しんこうえん)に、魯仲連はこう挑発します。

 

 「それでは私が秦王に、魏の王を煮殺させて、塩漬けにしてお目にかけましょう」

 

 驚いた新垣衍は、目を丸くしてこう答えました。

 

 「それはいくら先生の申されることでも、ひどすぎるぞ。それにしても、なぜ先生は秦王に我が国の王を煮殺させることができるのか?」

 

 魯仲連は答えます。

 

 「そんなことは簡単なことです。昔、殷(いん)の国には、九侯(きゅうこう)・顎侯(がくこう)・文王(ぶんおう)の三公がいて、当時の国王である紂王(ちゅうおう)に仕えていました。

 ある時、九侯が自分の娘で顔立ちの良いものを紂王に差し出した所、紂王は醜いと言って、九侯を煮殺して塩漬けにしてしまいました。それを知った顎侯が、強い口調で紂王をいさめると、今度は顎侯を殺して干し肉にしてしまいました。文王はその話を聞いて、思わずため息をつくと、助けが来るまで蔵の中に百日間も閉じ込められて、もう少しで餓死して死ぬところでした。

 魏の王様は、秦王と等しく王と称しながら、結局は干し肉や塩漬けの目に遭うような下地を作られるのは、一体何のためでしょうか」

 

 しばらく間を置いて魯仲連は、新垣衍に斉の大臣である夷維子(いいし)の逸話を聞かせました。

 

 「以前、斉の王が魯(ろ)の国におもむこうとした時、夷維子がむちを持って従っていましたが、魯の国の者に申しました。 

『お主たち、わが君は天子であられるぞ。天子がおもむかれた時には、諸侯は自分の住まいをあけて外に出て、屋敷の鍵を差し出し、襟(えり)を合わせて膳を持って、庭先でお食事の接待にあたり、天子が食事を終えられてから部屋を退出し、政事を見るものだ』

 すると、魯の国の者は門を閉ざして、斉の王を中に入れませんでした。

 

 斉の王は魯の国に入れなくなってしまったので、仕方なく、鄒(すう)の国に行きました。ちょうど、鄒の君が亡くなった所だったので、斉の王はお悔やみを言おうとしました。その時、夷維子は鄒の嗣子にこう言いました。

 『天子がお悔やみに来られれば、主人は棺の反対側に立って北を向き、南面の席をしつらえる。その後で天子が南面の席でお悔やみを言われる』

 それを聞くと、鄒の臣は 『どうしてもそうしろと言うのなら、我々は剣でのどをついて死ぬ』 と言って、斉の王を中に入れませんでした。

 

 鄒や魯の家臣たちは、主君の生前も十分な生活をさせることができず、死後も供え物を整えられずにいました。それでも、斉王が天子の礼を行なおうとすれば、それを拒んだのです」

 

 魯仲連はその後、さらにこうつけ加えました。

 

 「秦は万乗の国ですが、魏もまた万乗の国です。相手がただ一度の合戦に勝ったからといって、追従して帝の称号を与えようとするのは、魏の将軍は、鄒や魯の下男達にも劣ることになるではありませんか?」

 

 この後、魯仲連はさらに新垣衍に駄目押しをします。

 

 (2013/05/05パリブログ「過去は未来に活かされる)