熱い日が続きますね。

 ここ最近、新オフィスの準備でずっと、炎天下の新宿を飛び回っています。

 

 これまでの僕は、人生には無限の可能性があるし、それをつかむ取るためにも、努力を惜しんだらもったいない…… みたいな、体育会系の肩のこる考え方をしてきたんですけど(笑)

 

 この一年半の間に、ずいぶん考え方が変わりましたね。

 

 人生をよくするために努力する…… というのは勿論とても良いことなんですけど、自分の中の「人生をよくする」という定義が、あまりに曖昧で空回りしていたんです。

 

 それで、自分は一体何がしたいんだろうと考えたときに、よく分からなくなってしまいました。

 

 それと同時に、四柱推命のことを研究したり、史記を読み返したり、ケン・ウィルバーやシュタイナーとか他にもたくさんの本を読んで、ある時にふと、何かつっかえ棒が取れたような感覚になったんです。

 

 四柱推命というのは自然哲学ですから、本来、自然の中にヒントがあるんですよ。

 樹木なら樹木らしく、花なら花らしく生きるのが良いとされるし、太陽には海のような生き方はできないし、宝石は鋼鉄のように、火にくべて鍛えようと思わない方が良い、そんな風に、それぞれの自然の事物が自分にふさわしく生きることで、それぞれの良さが発揮される……

 

 山に登ったりして、自然の景色を見つめながら、そんなことを考えている内に、当たり前のことなのに忘れかけていたことを思い出しました。

 

 ケン・ウィルバーもルドルフ・シュタイナーも、史記につづられているそれぞれの人間の生き方も、それぞれ全て違う趣旨の本なのですが、どういう訳か、共通のメッセージを僕に与えてくれているように思えました。

 

 そして、人生というのは誰もが、一時的に辛い目に遭ったりしても、最終的には誰もが幸せになるように設定されている…… そんな風に感じたんです。

 

 これは、かなり誤解されやすい言葉で、この「幸せ」という言葉に、「大金持ちになる」とか「社会的に成功する」とか、そういったこの世的なものを定義してしまうと、とても矛盾に満ちた言葉になってしまいます。

 

 実際に、人生はそうではありませんから……

 

 それに、そういった類いの幸せが必ずしも、人生を本当に幸せにしてくれるとも限りません。

 その人の人生に、その幸せが本当にフィットしているかどうか、わかりませんから……

 

 ここで僕が伝えたい幸せの定義とは、少し表現するが難しいのですけど、例えるなら「心の底からわき上がるような幸せ」みたいな感じですかね。

 自分が大金持ちかどうかとか、人から認められているかどうかとか、そういった条件に左右されない幸せのことです。

 

 とはいえ、自分の心の中の囚われてしまっている部分や自己本位な部分などが、ある程度まで浄化されていないと、この幸せは当たり前にそこにあっても、全く感じられなかったりします。

 

 それで、時々人生で起こりうる辛いことや痛みというのは、自分の中のこの浄化を促進してくれるためにあるように思えるんですよ。

 僕自身、今それを実感しています。

 

 かといって、自ら辛いことや痛みにぶつかっていくような必要もないし、自分に負荷をかけ過ぎる必要もありません。

 

 自分に無理をしてストイックに生きても、ストレスが溜まるだけですし、健康に良いからといって、嫌いな食べ物を無理やり口に突っ込んでも、おなかが消化しきれませんから……

 

 人生というのは予想以上に、我々が幸せをつかめるように緻密に計画的に作られていますから、自分ができる限りのことをしつつ、あとは人生の流れに身を任せたら良いでしょう。

 

 ということで、明日は新オフィスのOPEN日だというのに、全く準備が間に合っていませんが、僕も、自分ができる限りのことをしつつ、流れに身を任せたいと思います。    本当にそれでいいのか(笑)