司馬季主(しばきしゅ)は、当時の漢の国の官吏について、こう語ります。

 

 「官吏の見習いに就いた時から、ずるがしこい詐偽にありたけの力を使い、ありもせぬ功績を言い立て、嘘の報告をでっちあげて、主君をたぶらかす。

 任用されて身分が高くなれば、大いばりで、自分の見習いの役に賢才がある者を絶対に選ばない。そして、自分の功績を並べる時には、事実の上に作り事を並べ、ないことをさぞあったように見せ、少ない場合は多く水増しし、そうやって、自分の権勢とさらに高い地位を求める。

 

 宴会だの遊猟だのには、美女や歌詞をひきつれ、その親たちの嘆きを顧みず、法を犯して民に損害を与え、公の費用を食いつぶす。

 これらは、弓や矛(ほこ)を使わない強盗、弦(つる)や刃を使わない反乱ですぞ。

 

 自分の父母を欺いているのに、罪に問われることはないし、その結果、主君が殺されたとしても、誰からも征伐されることはない……

 あなた方は、そういった者どもの、どこが賢才だとおっしゃるのですか!!」

 

 そして、司馬季主(しばきしゅ)は、宋忠(そうちゅう)と賈誼(かぎ)をまっすぐに見て、こう言い放ちました。

 

 「そんな官吏どもは、匪賊(ひぞく)が出て来たとしても、それを鎮めることはできないし、蛮族が服従しないときにも、その抑えはできない。悪人が悪さをしようとしても、それを防ぐこともできない。

 政府の失費と混乱をただすことはできないし、季節の不順をととのえることもできず、穀物が不作でも適切な処置はとれない。

 

 もし、賢才でありながら、それをせずにいたのであれば、それは不忠というものです。

 逆に賢才がなくて、ただ官位に寄りかかり、主君の俸禄をむさぼって、賢者の居るべき場所をさまたげるのならば、それは「位をぬすむ」というものです。

 

 仲間が多い者を推薦して恩を売り、豊かで財産がある者には丁寧に接する…… それは偽善というものです。

 

 あなた方、梟(ふくろう)や鳶(とんび)なんかが、鳳凰(ほうおう)と一緒に高く舞い上がるのを見ませんでしたか?

 蘭の花やよろい草やおんな草などの、本当に香しい価値ある草が野原に捨てられたままで、ヨモギのような雑草が林のように茂っているのを、見ませんでしたか?

 

 徳のある君子は退いて、認められないままでいる…… それは、あなた方大勢がしたことの結果なのですぞ」

 

 そしてこの後、司馬季主は占い師というものはどういうものなのか、ということを語ります。

 

 司馬季主の言葉は、現代に生きる占い師にも、大切なことを教えてくれます。