今や、劉邦の漢軍の力は絶大となり、項羽の楚(そ)軍との差は歴然となりました。

 

 韓信も大軍を引き連れて、劉邦の軍と合流しました。
 韓信が先鋒となった30万の漢軍は、10万の楚軍と対峙し、垓下(がいか)の戦いで、最終決戦を迎えました。

 

 「四面楚歌」 という言葉がありますが、これはこの戦いの故事が元になった言葉です。
 四方を漢軍に囲まれた項羽は、漢軍の陣から、自分の故郷である楚の国の歌が聞こえてくるのを耳にして、「敵には、なんと楚の人間が多いことか」 と嘆いたという故事から、生まれた言葉です。
 楚王・項羽はここであえなく最期を迎え、劉邦の漢王朝が、中国大陸を統一することになるのです。

 

 韓信はやがて、これまでの斉(せい)の国を召し上げられ、代わりに劉邦から、項羽の領土だった楚の国を与えられました。
 実は韓信も、項羽と同じ楚の出身者です。
 晴れて、生まれ育った地である楚の王となったんですね。

 

 韓信は、昔、落ちぶれていた自分に食事を与えてくれた綿打ちのおばさんを召し出し、千金を授けました。

 

 また、以前に自分の股をくぐらせた男を召しだして、国の警視総監に任命しました。そして、楚の将軍や大臣たちに、
 「こいつは立派な男だよ。わしに恥をかかせたのだから……」 と言って、笑って紹介したりもしました。

 

 思えば、これが淮陰侯韓信の絶頂期でした。

 

 ある時、皇帝になった劉邦に、「楚の韓信が謀反を起こしている」 という上書が届きました。

 韓信は楚の国内の様子を調べるために、いつも大勢の兵を引き連れて、隊列を組んで見回るものだから、決起していると誤解されてしまったんです。

 

 劉邦はこれは放っておけないと思いました。

 万一、謀反の噂が本当だったら、天下が危ないですから……

 

 劉邦は、参謀の陳平に相談して、策を巡らせました。

 そして「これからわしは旅行に出るから、陳(ちん)に集まれ」
 と言って、韓信を呼びつけたんです。

 

 韓信は、そんな風に疑われているなどと思っていませんから、昔 劉邦の敵だった項羽に仕えていた将軍の首を手土産に、陳に行きました。
 すると、いきなり縛りあげられて、カセをはめられてしまいました。

 

 しばらくして誤解は解けて釈放されたものの、楚王の位は取り上げられてしまいました。
 もちろんそれでも、臣下の身分は保障されはしましたが……

 

 当然、韓信は面白くありません。
 同じ劉邦の臣下の周勃(しゅうぼつ)や灌嬰(かんえい)や樊噲(はんかい)と、一緒の身分にされているのを不名誉なことだと思っていました。

 

 韓信が樊噲の家を訪れた時、樊噲は、同じ身分になったとはいえ、格上の韓信に
 「大王様には、わざわざ私めの家にお出まし下さいまして、大変嬉しく思います」 と、ひざまづいて頭を下げました。

 

 すると韓信は「オレも、樊噲ごときと同じ身分になってしまったとはな……」 とボソリ(笑)

 

 こういう態度は、以前の韓信には考えられないことです。
 樊噲は、劉邦がまだ挙兵する前からずっと、劉邦につき従ってきた将軍で、本来なら韓信の大先輩にあたる人です。
 王の位を取り上げられたことが、よっぽど悔しかったのでしょうが、こういった態度は、韓信の「自分はすごい人間なんだ」というおごりの気持ちそのものを表していると言えます。
 こんな態度を取り続ければ、やがて人望を失い、周りの人は離れていくのも当然でしょう。

 

 韓信は、いつも恨みをいだくようになりました。
 こんなことになるのなら、あの時、蒯通の悪魔のささやきの通りに劉邦から寝返っておけば良かった…… という思いが、何度も頭を駆け巡ったに違いありません。
 気分がふさぐので、自分は病気と偽って、謁見にも行幸にも一切出ませんでした。

 

 そんな無為な月日が流れたのち、韓信は悲しいことに、中国三大悪女の一人としても有名な、劉邦の妻・呂雉(りょち)によって、謀反の罪を着せられた上、だまし討ちにされて、首を切られてしまうのでした。

 

 (2013/04/10パリブログ「天から授かった能力」をリメイク)