連日続いている淮陰侯韓信(わいいんこう かんしん)のこのお話は、今から十年前、4日間かけて綴ったブログ記事をリメイクしながら投稿しているのですが、今日の韓信のお話は、十年前のパリブログの中では、省略してしまっていたお話になります。

 

 韓信の活躍により、項羽の楚軍がひるんだのを好機にして、劉邦は中国全土の諸侯に檄を飛ばし、56万もの打倒項羽の連合軍をかきあつめ、自らが指揮を執って、項羽の本拠地である彭城を陥落させることに成功しました。

 

 それまでは項羽に対してずっと弱腰だった劉邦が、堂々と項羽に宣戦布告し、ついに見事に勝利したのでした。

 

 これに烈火のごとく怒ったのは、項羽です。

 

 この時、項羽は遠征に行っていたのですが、知らせを聞くやすぐに本拠地に引き返して、56万の連合軍をたった3万の手勢で打ち破ってしまいます。

 

 連合軍がまるで統制が取れていなかったのも負けた原因ですが、二十倍の近くの兵力差をもろともしない、項羽の戦さの天才ぶりがわかります。

 

 この戦いを「彭城(ほうじょう)の戦い」というのですが、劉邦の漢軍の死者は10万に上ったと言われています。
 劉邦は命からがら脱出できたものの、劉邦の父と、劉邦の妻である呂雉(りょち)は捕まって、項羽の捕虜となってしまいました。
 そして、この大敗により、それまでは劉邦に味方していた諸侯達も、再び項羽になびいていくこととなります。

 

 その後、劉邦はしばらくの間、意気消沈して国を平定しようとする気力まで失ってしまいました。
 韓信は兵をまとめて劉邦の軍と合流し、楚軍を迎撃することで、これ以上味方に損害が出ることを防ぎました。

 

 やはり、人の能力というのは個人差があるんですね。
 項羽が持っている軍を率いる天賦の才能と勇猛さは、劉邦のそれをはるかに凌駕していたのです。
 この大きな差を埋めることは、ほとんど不可能だったと思います。

 

 ところが劉邦は、韓信という人材と出会って、韓信に兵の采配を任せることにより、それを克服したと言ってよいでしょう。
 そして、ピンチを乗り越えて、天下への足掛かりをつかんでいくことになるのです。