韓信のお話も、いよいよここから佳境に入ってきます。

 

 漢の大将軍になった韓信の前には、強大な敵勢力がひしめき合っていました。
 項羽に滅ぼされてしまった秦(しん)がなくなった今、一番手強いのは、言うまでもなく項羽の楚(そ)ですが、他にも、斉(さい)の田氏(でんし)一族の大勢力や、新たに興った彭越(ほうえつ)の勢力、魏(ぎ)や趙(ちょう)や燕(えん)の地にも小勢力がありました。

 

 これまでの劉邦は、項羽に対して弱腰で、項羽からにらまれることを、いつも恐れていました。
 そして、項羽の拠点に自分が進軍する意図がないことを示すために、わざわざ項羽の本拠地へ向かう街道を焼き払ったりしました。

 

 みんな、項羽を怒らせて、自分の国に攻め込まれることを恐れていたんです。
 それだけ、項羽の楚軍が段違いに強かったのですね。

 

 項羽が各地の反乱を平定するために、あちこちに転戦するようになると、韓信はこれを、劉邦が項羽に戦いを挑む好機ととらえました。
 そして、劉邦にある策を進言します。これは、後の時代に「兵法三十六計」のうちの一計とされた「暗渡陳倉(あんとちんそう)」という計略です。

 

 韓信はわざと敵に知れるように、劉邦が焼き払った街道を、大人数の人夫に修復作業をさせました。
 その情報はすぐに、項羽の配下となっていた章邯(しょうかん)の耳に入りました。
 章邯という人は、元々秦の国の歴戦の名将で、秦が滅亡したのちは、項羽の元に身を寄せていたのです。

 

 章邯は、街道の修復には相当な時間が掛かるから、もし漢軍が攻め込んでくるつもりでも、それはかなり先のだろうと考えました。
 ところが韓信は、実は街道の修復作業をさせながら、項羽の本拠地に向けて、山脈を大きく迂回する別ルートを使って、こっそりと別働隊を進軍させていました。
 街道の修復に意識を向けさせて、この別動隊の進軍に気づかれないようにしたのですね。
 そして、いきなり項羽の楚軍を別動隊で急襲して、章邯を敗走させてしまいました。

 

 その上さらに勢いのまま、次々と項羽の配下武将の軍を打ち破っていきます。
 章邯は敗走させられた後、廃丘(はいきゅう)の城に籠城するも、韓信の水攻めの計にかかって動きが取れなくなり、仕方なく城を出て潼関(どうかん)の地へと逃げ込みました。
 そしてそこで、韓信の追撃を受け、あっけなく自害してしまいます。

 

 秦の時代からの歴戦の名将である章邯の軍を見事に打ち破ったことは、いやおうなしに韓信の名を天下にとどろかせました。

 

 それまではどんなに開こうともがいても、ビクともしなかった韓信の人生の運命の扉が、今、大きく開かれようとしていました。

 

 (2013/04/08パリブログ「目指しているものがあるから妥協しない」をリメイク)