以前パリブログに、このパリとは全く関係ない淮陰侯韓信(わいいんこう かんしん)の記事を載せた時は、4日間でこの話を完結させました。
 あのブログは一回一回の話が長い上に、まとまりがなくて、読んでくれた人に大変な思いをさせたように思います。
 というより、あれをちゃんと読んでくれた人が本当にいるかどうかも、疑わしいです(笑)

 

 ここで、この韓信が生きていた時代のことを、簡単に解説したいと思います。
 この時代の中国大陸は、それまで強大な覇権を握っていた秦(しん)という国の支配力が、始皇帝の崩御や権力者である宦官(かんがん)の腐敗によって根底から崩れ、やがて各地で大小の武装勢力が覇権を争い合うようになっていました。

 

 その武装勢力の中で特に強大なものが、項羽の楚(そ)と劉邦の漢(かん)だったのです。
 そして、この時点では断然、項羽の楚の方が劉邦の漢よりも優勢で、当時の劉邦は項羽を恐れて、いつも項羽のご機嫌を伺っているような状態でした。
 この時は間違いなく、項羽の楚が天下に一番近い存在でした。
 だから、韓信が下した「項羽の陣営を去る」という決断は、せっかく得ることができた安定と食い扶持を、自ら放棄してしまうような行為だったのです。

 

 さて、次に韓信は「項羽と劉邦」 のもう一人の主人公・劉邦の陣営に志願をします。
 採用はされたものの、韓信が与えられた仕事は、連敖(れんごう)と呼ばれる、ただの接待係でした。
 考えてみれば、何の実績もない韓信に、大した役職が与えられる訳はないんですね。
 連敖などと言っても、たくさんいる下役人の一人ですから、当然、劉邦の目にとまることもありません。
 だいたいこの頃の劉邦は、項羽によって「漢中」という貧しい土地に追いやられたばかりで、いわゆる落ち目の状態ですし……

 

 ただこの時、韓信は、劉邦の重臣である夏侯嬰(かこうえい)から気に入られて、劉邦に推挙されるに至っています。

 

 劉邦は、夏侯嬰が推挙した初めて見るこの韓信という若者を、治粟都尉(ちぞくとい)という役職につけました。
 名前は恰好いいですけど、単なる軍の食糧係のことです。まあ、現実はそんなに甘くありません(笑)
 ところが、この治粟都尉の仕事をしているうちに、劉邦の右腕でもある宰相の蕭何(しょうか)の目に止まっていきます。
 いつも暇さえあれば兵法書を読んでいて、仕事の手際も良いし、話をしてみれば、目から鼻に抜けるような才知がある……
 蕭何にして、「この若者は凡人ではない」と感じさせるものがあったのだと思います。
 蕭何は主君の劉邦に、韓信を昇進させるように持ち掛けました。
 しかし残念ながら、劉邦は韓信に何の興味も示すことはなく、そのまま、時が流れていきました。

 

 韓信は、やっぱりここにいても仕方ない…… と思い、劉邦の陣営も離れる事にしました。
 ある日、闇に紛れて漢軍の陣営から抜け出して逃げると、なんと蕭何がたった一人で、わざわざ韓信を追いかけてきたんです。
 「才あるものは、才あるものを見抜く」という言葉の通り、蕭何は韓信の才能を無抜いていたのですね。

 

 劉邦は最初、蕭何までもが逃げ出してしまったかと勘違いして、狼狽したほどです。
 蕭何は劉邦に向かって「この漢中を出て、天下を争おうと考えているのなら、韓信は絶対に必要不可欠な人材です」と、韓信を抜擢するように強く説得し、劉邦もそれを聞き入れて、韓信を自軍の大将軍にしたのです。
 この決断をした劉邦は、本当に偉いと思います。そしてその結果、天下を掌中に収めることができたとも言えます。
 淮陰侯韓信の類まれなる成功と悲運は、まさにここから始まったと言えましょう。

 

 (2013/04/08パリブログ「目指しているものがあるから妥協しない」をリメイク)