東洋の占いについての、おそらく最も古い記録は、およそ紀元前3600年前の古代中国の新石器時代・龍山(りゅうざん)文化における、牛や豚や羊なんかの肩骨を用いた占卜(せんぼく)だと思います。

 

 その頃は、獣の肩骨を火にくべて、そのヒビの入り方で占ったんですね。
 龍山文化というのは、殷(いん)王朝の前に存在したとされる二里頭(にりとう)文化の夏王朝よりも、さらに前の文化です。

 

 やがて殷の時代になると、亀の甲羅なんかも占卜に使われ、そこに吉とか凶とか、占いの結果を刻み込む習慣もできました。

 

 「四柱推命の占い方」の本の中でも少し触れましたが、そこに記されている結果のほとんどは大吉や吉で、凶はあまりありませんでした。

 

 この時の吉凶の取り方なんですけど、ヒビが縦方向にきれいに割れ目が入っていれば吉、横方向にバリバリと不規則に割れたら凶、と捉えているのではないかと、研究者の間で推測されています。
 手相なんかでも基本的に、縦の線は良い線で、横の線は障害を表すとされるのですが、これと全く同じなんですね。

 

 それでは占いについて書かれた最も古い文献は何かといえば、周王朝の時代に完成したとされる「易経」です。
 こういった占いが日本に伝わったのは弥生時代の頃で、朝鮮半島経由で伝わったとのことです。

 

 日本が弥生時代だった頃、中国では春秋戦国時代から秦王朝が建国され、さらに項羽と劉邦の戦いを経て漢王朝が成立し、そして魏・呉・蜀の三国時代に突入しています。邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に使いを出して、金印をもらったのも、この時代です。

 

 ちなみに、占い師という存在について書かれているもので最も古い文献は、おそらく漢の時代に書かれた司馬遷の史記だと思います。 この史記の日者列伝に、司馬季主(しばきしゅ)という人物が登場します。

 

 司馬季主というのは、国家とか貴族に仕えているお抱え占い師ではなく、いわゆる街の易者なのですが、とても見識が高く、ものすごく真理をついたことを話すのです。

 

 この司馬季主の話もすごく面白いので、また日を改めて書こうと思います。

 

 何はともあれ、占いの歴史というのを紐解いていくと、悠久の時を遡ることになります。

 

 おそらく占いというのは、人間が、天と呼ばれるものや、神なるもの…… まあ呼び方はいろいろあって構わないと思うのですが、そういったものとコンタクトを取るための手段だったのだと思います。
 気を引き締めて、真摯な気持ちで取り扱いたいと思います。