アサミです、コンニチハ♪

 

考察その2。

今日は自分軸に絡めた考察です。

 

今回の舞台はダブルキャストだったので

カムパネルラを演じる回と

アンサンブルでいろいろ演じた回が

ありました。

 

アンサンブルの方では

”マルソ”という級友の役を演じました。

マルソはジョバンニに意地悪な

ザネリの腰ぎんちゃくみたいな子です。

 

でね、このマルソ。

原作を読み解くと

とっても大切な役なのです。

 

銀河鉄道に乗る前は

他者はジョバンニにとって

常に隔たっている存在です。

級友はからかってくるし

アルバイト先でも馬鹿にされるし

届かなかった牛乳を取りに行っても

邪険にあしらわれるし。

 

カムパネルラはからかいはしないし

本当はジョバンニを気にしているけれど

近づいては来ません。

そればかりかケンタウル祭の夜は

「ぼんやり橋の方へ歩いていってしまっ」て

ついには彼岸にまで行っちゃう訳だからー!

 

ジョバンニが執拗に繰り返す

「僕たちどこまでも行こう」

「ずっと一緒だよ」という言葉は

この喪失の予感がずっとあって

不安で仕方がないからなのでしょうね。

つまりカムパネルラでさえも

ジョバンニには遠い存在なのです。

 

ところが。

銀河鉄道の夢から覚めた後

子供が溺れた話を聞いて橋に向かうと

河原へ降りたジョバンニに

マルソが「走り寄って」来るのです。

他者が自ら歩み寄ってくるなんて青天の霹靂!

そしてもっと驚くべきなのは

ジョバンニ自身がそれを何とも思わないこと。

なんならジョバンニの方も

「みんなのいるそっちの方へ」

何の苦もなく不思議もなく近寄っていくのです。

 

最初の学校の授業の時は

当てられて注目を浴びただけでドギマギして

わかる答えも言えない程だったのに。

お祭りで遊びに行く級友を見かけた時は

引き返して避けようと思ったくらいなのに。

 

ここで思い出すのが

JF(自分軸ファッション)の話。

「未来の進化した私(理想の私)に

意識を合わせて装うことで

現実を引き寄せる」メソッドです。

JFで最初に学ぶ”地球のルール”は

「現実=自分のエネルギーの結晶」です。

 

エネルギーが先で

現実は後からついてくる。

ジョバンニ、正にこれじゃね?

「みんなのほんとうのさいはひ」を探し

求道者としての熱い理想を掲げる

ジョバンニに対して

他者は近しくて当たり前ですもんね。

先出しの求道者のエネルギー(理想)に

マルソ(現実)がくっついてやって来た!

 

まだあります。

目覚めてまず一番に行く牛乳屋。

届かなかった牛乳を貰いに行くと

最初に出てきた老婆ではなく

明るくて気のいい男性が対応してくれます。

 

しかも旅の前に入った時は

「黒い門」を通るのに対して

後の方は「白い牧場の柵をまはって」入り

「しぃんとしても居たようでは」なかったのが

「白い太いずぼんをはいた人がすぐ出て来」ます。

同じ牛乳屋のはずがまったく違う印象なのは

受け取るジョバンニの認識の違いなのでしょう。

 

旅の前後で大きく変化した意識は

ものの捉え方にも影響して

牛乳屋は「黒くて暗い」から

「白くて明るい」に変わり

旅の前は級友にからかわれて胸が冷たくなったり

でぬれたシャツもつめたく冷されました」と

冷たさを受け取っていたのに対して

牛乳屋でもらった「まだ熱い乳の瓶」は

確かな温もりを伝えています。

 

最初の授業で胸をときめかせた

「乳の流れたあと」と言われる天の川。

その天の川銀河をたった今旅してきて

いま掌で包むように持っているのは乳…

つまりやっぱり天の川なのです。

ジョバンニはカムパネルラのいる銀河を

抱えて歩いているのです。

ジョバンニはもう孤独ではありません。

 

ずっと不在だった父も明日にも帰ってくる

という知らせももたらされました。

これで生活の心配もなくなることでしょう。

 

何にも揺らがない自分軸を手に入れた

ジョバンニの未来には

明るい出来事しかないのです。

いや、書かれてないけど。

 

で、こんな考察を30年も前にしていた私、

なんで地球のルールに気付かなかったかなぁ?

というオチがつくのでした。

 

アサミです、コンニチハ♪

 

ちょうど一週間前。

宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』を上演しておりました。

地元、そして各地からのご来場

本当にありがとうございました!

 

『銀河鉄道の夜』は未完の小説です。

第1~4次稿があり、37歳で亡くなる間際まで

10年に及ぶ推敲が重ねられました。

 

第3次稿を[初期形](青空文庫で読めます)とし

いま本屋で売られているのは

[最終形]第4次稿に当たります。

しかしそれも途中が抜けていたりする未定稿…

完成していたら、何次稿までいったのかなぁ。

 

いい機会なので、今日から3回ほど(そんなに!?)

この作品について語ってゆきたいなと思います。

『銀鉄』好きな方、どうぞお付き合いください♪

 

卒論のテーマに選んだほど大好きな作品です。

舞台化に当たり、私の解釈も取り入れてもらいました。

今日はそんな所を書いてみたいなと思います。

 

***********

 

一般的には

主人公のジョバンニは

生きて現実に戻り

銀河鉄道で共に旅した

カムパネルラは死んで天国に行く、

生と死に分断されるお話と

解釈されているように思います。

 

ですが私はこの物語を

二人がそれぞれの新生を辿って

共生してゆく道のりを

描いた作品と考えています。

 

生活のために放課後は働かねばならず

忙しさと疲れで

友達と遊ぶこともなくなり

独りぼっちのジョバンニ。

幼い頃に仲が良かった

カムパネルラには

別の親しい友達がいます。

ジョバンニには

それが辛くて悲しくて
どこまでも二人で旅をする夢を見ます。

 

実はジョバンニは無意識に

カムパネルラの喪失を予見しています。

祭りの夜に偶然出会ったカムパネルラは

「向こうにぼんやり見える橋の方に

歩いて行ってしま」うという表現で

象徴的に語られています。

 

実際にこの後カムパネルラは

川に落ちた級友のザネリを助け

溺れて死んでしまいます。

それを感じ取ったジョバンニの

カムパネルラを渇望する思いが

幻想第四次という空間を作り出し

気が付くと二人で銀河鉄道に乗っていたのです。

 

旅の始まりのジョバンニは

現実での孤独感を引きずるいじけた少年でした。

だからカムパネルラと二人だけでいられるのが

嬉しくて仕方がないのです。

途中で乗り込んできた”鳥を捕る人”は

それを邪魔する存在でした。

 

それなのに。

鳥を捕ることだけが人生の総てである彼が

哀れに思えてきて

「本当にあなたの欲しいものはなんですか」と

訊かずにはいられなくなります。

この人の本当の幸いになるなら

自分が代わりに何でもしてあげたいと思ったり

あまり言葉をかけなかった事を

「大変つらい」と後悔するのです。

 

”みんなの本当の幸い”を考えるということは

特定の存在を持たず

広く全員のことを思うことです。

ジョバンニにおいては

カムパネルラへの執着を

なくすことを意味します。

鳥捕りに触発されて

その一歩を踏み出したのです。

 

そしてジョバンニの中に

確固たる信念としてその願いが刻まれるのが

乗客の少女から「蠍の話」を聴いた時でした。

 

いたちから逃げるうちに井戸に落ちてしまった蠍が

「どうかこんなにむなしく命を捨てずに

まことのみんなの幸いのために

私の体をお使いください」

と神様に祈ると

自分の体が真っ赤な美しい火となって燃え

夜空の闇を明るく照らすようになっていた

という話でした。

 

「僕はもう、あのさそりのように、

本当にみんなの幸いのためならば、

僕の体なんか百ぺん灼いても構わない」

「きっとみんなの本当の幸いを探しに行く」

 

これは賢治が信仰した法華経の教えそのものです。

「自分を救おうとするよりも先に

他の一切衆生を救済しようと願う」

という菩提心の表れであり

暗くいじけた魂を浄化させ、求道者として新生する

ジョバンニの決意表明です。

 

***********

 

一方のカムパネルラは

「おっかさんは僕をゆるして下さるだろうか」と

先立ってしまった親不孝と

ザネリを助けて死んだ自己犠牲の尊さとの

狭間で揺れていました。

けれど「ハレルヤ」の声と共に溢れた

金色の円光に祝福されたことで

晴れやかな気持ちになります。

 

そして旅の終わりに

”みんな”がいるというきれいな野原を見つけて

「あすこが本当の天上なんだ」

「あすこにいるの、ぼくのお母さんだよ」と言います。

 

この”お母さん”は

最初に呼んだ”おっかさん”のことではなく

個を離れた魂としての存在の源だと

私は考えています。

 

現世の母の手から始原の母の手へ。

かつて”カムパネルラ”と呼ばれた魂は

帰途の旅を終え

”本当の天上”に新しく生まれ出ようとしてるのです。


***********

 

カムパネルラの死を祝福によって浄化し

新生を確認した銀河鉄道の旅は

ジョバンニの用意した野辺送りとも言えます。

ならばジョバンニも

その目的を果たした後は

地上に帰らなければなりません。

カムパネルラの喪失を悲しみ

執着するジョバンニでいたら

永遠にすれ違ってしまう。

カムパネルラと新生を果たす。

それだけが

”本当の幸い”を求めて
唯一二人が共に行ける方法です。

 

カムパネルラは

「あすこ。石炭袋だよ。空の孔だよ」

と指さします。

石炭袋はブラックホールのことです。

ジョバンニはそこに吸い込まれて

現実に帰るという示唆です。

「君はあすこへ行くんだよ」

カムパネルラを演じている時

私は心の中で

ジョバンニにそう言っていました。

 

「どこまでもどこまでも

僕たち一緒に進んでいこう」

ジョバンニの呼びかけに

「ああ。きっと行くよ」と

カムパネルラは約束しました。

 

ここも私の解釈ですが

最後はジョバンニが

カムパネルラを見失ったのではなく

カムパネルラは”ほんとうの天上”で下車し

ジョバンニは”石炭袋”に吸い込まれた。

悲しい永遠の別れではなく

共に生きることを約束して

お互いがお互いを見送ったのです。

 

そこをなんとか表現したくて、舞台では

ジョバンニが壁に阻まれて

カムパネルラの傍に行けない

というパントマイムで

別空間に分かれたことを見せました。

カムパネルラは

呼ばれた気がして振り返り

見つけたジョバンニに笑顔で頷き

しっかり歩んで列車を降りてゆきます。

 

現実に戻り川へ行ったジョバンニは

結局うまく話せないのですが

カムパネルラのお父さんに

「カムパネルラはあそこにいます」と

天を指して伝えようとします。

カムパネルラはあそこで生きている…

その確信があるのです。


***********

 

賢治が病床化で手帳に書きつけた

『雨ニモマケズ』の”デクノボー”は

賢治の理想だった常不軽菩薩であり

死の床に伏しながらも

頭をもたげようとする

強い信仰心の表白でもあります。

 

それと時期を同じくして

推敲されたと考えられるこの[最終形]は

真っ直ぐに"生”を見つめた賢治からの祝福、

死を超えた生の物語だと思います。

 

以上、長くなりましたが、

アサミ解釈の『銀河鉄道の夜』でした。

あくまでも原作に対する考察です。

舞台はお客様の感性で

受け取って頂いたものが全てです。

 

演劇は稽古だけでは完成しません。

劇場でお客様が観て下さって初めて

「生きて完成する作品」になるのです。

その場でしか出会えない空気

起こせない化学反応

それが見たくて味わいたくて

私は舞台に立ち続けているのです。。。

 

 

 

アサミです。コンバンハ♪

2023年も残すところあと1ヶ月を切りました。

日刊にしたいのに年刊になっているブログ笑い泣き

いや、笑いごとじゃないんだけど。

 

2年前の12月はコミュニティでやる芝居

去年はJFニスタのファッションショー

12月になると何かしら

大きなプロジェクトに携わってましたラブ

今年はどうなるかなと思っていたら

久々にコミュニティに参加することに✨

まだ1回目の配信を見られていないんですが

その前になんとなく。

自分の現在地を確認しておきたくなって

ポチポチしています。

 

 

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子供の頃から「世界の七不思議!」みたいな

神秘的な話が好きだった。

ファンタジーも大好き。

「一体この世界は何なのか」

心にはいつも尽きない謎への憧れがあって。

 

もう少し成長すると

「一体私は何なのか」が悩みであり

ヒトはなぜ生まれてくるのか

役目を持って生まれてきたとかよく聞くけど

じゃあなんでそれを忘れているのか

この世の仕組みってなんなんだ!と

それを知りたくて知りたくて

仕方がなくなっていた。

 

それがわからないから

自分はいつまでたっても

「なりたい自分」になれないんだって

今の自分ではない何者かになること

なれないことに焦れていた20代、30代。

 

そして飛んで2023年。

この数年でいろいろな発信に出逢って

今の私は知りたくてたまらなかった答えを

得ることが出来ている。

「求めよ。さらば与えられん。」

本当にその通りチュー

 

この世の仕組みも

人が生まれてくる理由も

どうして肉体を持っているのかも

誕生日や親を自分で

決めてきているって話も

なんで前世が「坂本龍馬」や

「卑弥呼」って人が

何人もいるのかも(笑)

 

そして

「過去の自分」も

「いつかの未来の自分」も

存在しないんだってこと。

「毎瞬毎瞬の自分」が

過去世も現世も未来世も

全て同時に存在していること。

それはすべてデータの集積

なんだってことも。

 

足りないものをどんどん補うから

なりたい自分になれるのではなく

要らないものをどんどん手放すから

本来の自分を思い出せるのだということ。

自分の輪郭を浮き上がらせること=

目醒めることで

私は目を醒ましたいんだってこと。

統合の方法も手に入れた。

 

いろいろな人が

いろいろな方法で言葉で

全く同じことを言っている。

特にこの一年

あらゆる方向からその話が入って来た。

私には

その同じに思えることが

「たったひとつの真実」

 

何年か前にそうやって目が醒めている人

「この人は本物の能力者だな」と

思う人の発信を読んだ時は

その喜怒哀楽を超越した達観ぶりが

非人間的で恐ろしくて

あまりにも現世から離れすぎている感に

怯んでしまったことがある。

途轍もない一体感の喜びや安らぎを

語られていたけれど愛飛び出すハート

私にはそれはストイックすぎて

とても味気なく感じられたえー


常に心を揺さぶられて

動かし続けるのが

役者の本分だと思っていたから。

役者でいられなくなるのは嫌だった。

 

でも今ならそれが求めていた

本当に行き着く場所なんだとわかる。

あの時はあんなに拒否したのに

今はそこに到達したい(笑)

ワクワクする自分がいる。

心の準備は出来た。

今の自分ならどう受け止めるだろうか。

もう一度その人の発信を

読んでみたいけど

どこの誰だったか名前を覚えていない。

残念!

 

今の私には知識としての理解で

肚落ちの実感はまだない。

少しだけ兆しはあっても

あまり実践をしていないから

まだほんの微々たるもの。

 

ここからが大祓。

待ってろ2024年ニヤリニヤリニヤリ

よし!配信見ようメラメラ

 

 

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唐突にミニチュアの写真笑

高い集中力を必要として

ピンセットで並べる作業は

子供の遊びでは出来ない作業。

「無」になれる大切な時間です。

と言いつつ楽しんでますが笑い泣き

一目惚れした

黒ヒョウのDIVAにために

作ったJAZZバーですドキドキラブラブ