アサミです、コンニチハ♪

 

ちょうど一週間前。

宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』を上演しておりました。

地元、そして各地からのご来場

本当にありがとうございました!

 

『銀河鉄道の夜』は未完の小説です。

第1~4次稿があり、37歳で亡くなる間際まで

10年に及ぶ推敲が重ねられました。

 

第3次稿を[初期形](青空文庫で読めます)とし

いま本屋で売られているのは

[最終形]第4次稿に当たります。

しかしそれも途中が抜けていたりする未定稿…

完成していたら、何次稿までいったのかなぁ。

 

いい機会なので、今日から3回ほど(そんなに!?)

この作品について語ってゆきたいなと思います。

『銀鉄』好きな方、どうぞお付き合いください♪

 

卒論のテーマに選んだほど大好きな作品です。

舞台化に当たり、私の解釈も取り入れてもらいました。

今日はそんな所を書いてみたいなと思います。

 

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一般的には

主人公のジョバンニは

生きて現実に戻り

銀河鉄道で共に旅した

カムパネルラは死んで天国に行く、

生と死に分断されるお話と

解釈されているように思います。

 

ですが私はこの物語を

二人がそれぞれの新生を辿って

共生してゆく道のりを

描いた作品と考えています。

 

生活のために放課後は働かねばならず

忙しさと疲れで

友達と遊ぶこともなくなり

独りぼっちのジョバンニ。

幼い頃に仲が良かった

カムパネルラには

別の親しい友達がいます。

ジョバンニには

それが辛くて悲しくて
どこまでも二人で旅をする夢を見ます。

 

実はジョバンニは無意識に

カムパネルラの喪失を予見しています。

祭りの夜に偶然出会ったカムパネルラは

「向こうにぼんやり見える橋の方に

歩いて行ってしま」うという表現で

象徴的に語られています。

 

実際にこの後カムパネルラは

川に落ちた級友のザネリを助け

溺れて死んでしまいます。

それを感じ取ったジョバンニの

カムパネルラを渇望する思いが

幻想第四次という空間を作り出し

気が付くと二人で銀河鉄道に乗っていたのです。

 

旅の始まりのジョバンニは

現実での孤独感を引きずるいじけた少年でした。

だからカムパネルラと二人だけでいられるのが

嬉しくて仕方がないのです。

途中で乗り込んできた”鳥を捕る人”は

それを邪魔する存在でした。

 

それなのに。

鳥を捕ることだけが人生の総てである彼が

哀れに思えてきて

「本当にあなたの欲しいものはなんですか」と

訊かずにはいられなくなります。

この人の本当の幸いになるなら

自分が代わりに何でもしてあげたいと思ったり

あまり言葉をかけなかった事を

「大変つらい」と後悔するのです。

 

”みんなの本当の幸い”を考えるということは

特定の存在を持たず

広く全員のことを思うことです。

ジョバンニにおいては

カムパネルラへの執着を

なくすことを意味します。

鳥捕りに触発されて

その一歩を踏み出したのです。

 

そしてジョバンニの中に

確固たる信念としてその願いが刻まれるのが

乗客の少女から「蠍の話」を聴いた時でした。

 

いたちから逃げるうちに井戸に落ちてしまった蠍が

「どうかこんなにむなしく命を捨てずに

まことのみんなの幸いのために

私の体をお使いください」

と神様に祈ると

自分の体が真っ赤な美しい火となって燃え

夜空の闇を明るく照らすようになっていた

という話でした。

 

「僕はもう、あのさそりのように、

本当にみんなの幸いのためならば、

僕の体なんか百ぺん灼いても構わない」

「きっとみんなの本当の幸いを探しに行く」

 

これは賢治が信仰した法華経の教えそのものです。

「自分を救おうとするよりも先に

他の一切衆生を救済しようと願う」

という菩提心の表れであり

暗くいじけた魂を浄化させ、求道者として新生する

ジョバンニの決意表明です。

 

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一方のカムパネルラは

「おっかさんは僕をゆるして下さるだろうか」と

先立ってしまった親不孝と

ザネリを助けて死んだ自己犠牲の尊さとの

狭間で揺れていました。

けれど「ハレルヤ」の声と共に溢れた

金色の円光に祝福されたことで

晴れやかな気持ちになります。

 

そして旅の終わりに

”みんな”がいるというきれいな野原を見つけて

「あすこが本当の天上なんだ」

「あすこにいるの、ぼくのお母さんだよ」と言います。

 

この”お母さん”は

最初に呼んだ”おっかさん”のことではなく

個を離れた魂としての存在の源だと

私は考えています。

 

現世の母の手から始原の母の手へ。

かつて”カムパネルラ”と呼ばれた魂は

帰途の旅を終え

”本当の天上”に新しく生まれ出ようとしてるのです。


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カムパネルラの死を祝福によって浄化し

新生を確認した銀河鉄道の旅は

ジョバンニの用意した野辺送りとも言えます。

ならばジョバンニも

その目的を果たした後は

地上に帰らなければなりません。

カムパネルラの喪失を悲しみ

執着するジョバンニでいたら

永遠にすれ違ってしまう。

カムパネルラと新生を果たす。

それだけが

”本当の幸い”を求めて
唯一二人が共に行ける方法です。

 

カムパネルラは

「あすこ。石炭袋だよ。空の孔だよ」

と指さします。

石炭袋はブラックホールのことです。

ジョバンニはそこに吸い込まれて

現実に帰るという示唆です。

「君はあすこへ行くんだよ」

カムパネルラを演じている時

私は心の中で

ジョバンニにそう言っていました。

 

「どこまでもどこまでも

僕たち一緒に進んでいこう」

ジョバンニの呼びかけに

「ああ。きっと行くよ」と

カムパネルラは約束しました。

 

ここも私の解釈ですが

最後はジョバンニが

カムパネルラを見失ったのではなく

カムパネルラは”ほんとうの天上”で下車し

ジョバンニは”石炭袋”に吸い込まれた。

悲しい永遠の別れではなく

共に生きることを約束して

お互いがお互いを見送ったのです。

 

そこをなんとか表現したくて、舞台では

ジョバンニが壁に阻まれて

カムパネルラの傍に行けない

というパントマイムで

別空間に分かれたことを見せました。

カムパネルラは

呼ばれた気がして振り返り

見つけたジョバンニに笑顔で頷き

しっかり歩んで列車を降りてゆきます。

 

現実に戻り川へ行ったジョバンニは

結局うまく話せないのですが

カムパネルラのお父さんに

「カムパネルラはあそこにいます」と

天を指して伝えようとします。

カムパネルラはあそこで生きている…

その確信があるのです。


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賢治が病床化で手帳に書きつけた

『雨ニモマケズ』の”デクノボー”は

賢治の理想だった常不軽菩薩であり

死の床に伏しながらも

頭をもたげようとする

強い信仰心の表白でもあります。

 

それと時期を同じくして

推敲されたと考えられるこの[最終形]は

真っ直ぐに"生”を見つめた賢治からの祝福、

死を超えた生の物語だと思います。

 

以上、長くなりましたが、

アサミ解釈の『銀河鉄道の夜』でした。

あくまでも原作に対する考察です。

舞台はお客様の感性で

受け取って頂いたものが全てです。

 

演劇は稽古だけでは完成しません。

劇場でお客様が観て下さって初めて

「生きて完成する作品」になるのです。

その場でしか出会えない空気

起こせない化学反応

それが見たくて味わいたくて

私は舞台に立ち続けているのです。。。