「もう、遅くありませんよ」
言われてみれば、いつのまにやら豪雨はぴたりとやんで、ブラインド越しに、早暁の光がのぞいている。
「閣下、これどうぞ」
「ありがとう、フロイライン・フォイエルバッハ」
柊館炎上事件の夜を再現するようにカップが差し出されたが、受け取る側は、あのときよりもややぎこちなかったようだ。
いまだに、少女を名前で呼ぶことはできていない。
「いろいろとおさわがせをして、すみませんでした」
娘は自分の飲み物も用意して、となりに座った。
「いや、おかげさまで助かったよ」
そう、いつも彼女には助けられてばかりだ。あのときも、そして今も。
「ロッテンハイムさんの言いつけを守らなければいけないのに、つい」
「君は、なぜ玄関にいたのだね?」
訓練の実施予定期間中、行動は制限されていたはずだ。
「ええと、アンナに、同僚の子につきあって」
「なんの用事で?」
黒っぽい瞳が何度もしばたたかれ、宙に舞う言葉をさがしているようであった。
「……彼女が片想いしている人を見に行ったんです」
「え?」
乙女心にうとい三九歳独身男子は、二の句が継げなかった。
娘は乳白色の液体に口をつけ、わずかに眉をしかめてから笑ってみせた。
「お砂糖やミルクをいっぱいいれたら大丈夫かと思ったけど、やっぱ苦いんですね。ブラックで飲めるなんて、閣下はすごいです」
ふっと微妙な距離感が消えて、おだやかな風景がよみがえった気がした。
「甘いのをあまり好まないだけだよ」
豊潤な香りが鼻孔をくすぐり、鈍麻していた神経が呼び覚まされる。
喉を滑りおちる熱い刺激に意識を集中させて、ひとときの休息を楽しむとしよう。
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