第11回  2020年4月29日 『「永遠の都」のロシア語版』 | 加賀乙彦オフィシャルブログ

 昨年末、私の長編小説『永遠の都』のロシア語への翻訳が、現代ロシアを代表する日本学者のアレクサンドル・メシェリャコフ氏を中心とする7人の面々の働きで成就した。何と素晴らしい知らせであったろう。ともかく長い小説である。トルストイの『戦争と平和』よりも長いのだ。この長尺の小説の世界に作者は読む人々を引き込み、面白がらせ、夢見させなくてはならない。それができたのは、少年時代に読んだ諸作品、やはりトルストイとドストエフスキーの文体の御蔭であった。この二人の作家から私は教えられ、文章の奥行の深さに時を忘れた。何度でも読み返した。読めば読むほど言葉の組み立てた世界が深みを増し、その世界が更に別世界を生んだ。

 

 『永遠の都』は、日露戦争の思い出話から始まっている。現在の時に過去の時が重なってくる。今と昔とが入り交じる。そうやって何を表現しようとするのか。ひとつは、やがて襲い掛かってくる戦争の時代であることは確かである。戦争による巨大な焼失の街を画くためには平和な街を描かねばならぬ。綿密な美しい木造建築に住む人々の生活の中で、恋愛が進行する。まさしく戦争と平和が織り成している作品なのだ。しかしメシェリャコフ氏が炯眼で見抜いたように、母親の子育ての家庭小説は、子供のおさない恋愛小説になっていき、戦争の始まるや反戦小説へと変化していく。こういう変転の技法を私が会得したのは小説家になって二十年間ほど私が幼年時代を書かないでいた動機のせいでもあった。 

 

 私が『永遠の都』を書き始めたのは19861月「新潮」という文芸雑誌に連載を始めたときで、私は56歳になっていた。これを言い直すと、私が自分の祖父や両親や弟たちのことを小説に組み入れたのは、56歳にして初めてであった。とくに海軍の軍医であった祖父は、日露戦争のとき巡洋艦に乗船しており、19055月の日本海海戦の経験を日記帳に詳しく記録していた。祖父は日露戦争が終結し明治天皇崩御のあと、軍を退いて三田綱町に外科病院を開業した。日本海海戦の経緯を祖父は、まるで自分が海軍の司令長官になったような熱意をもって記録していた。日本という国が、戦争による勝利で世界の列強を追いかけたものの、ついには息切れにより敗北していく様子が、祖父の日記帳にまざまざと書かれていた。 

 祖父の日記帳を読みながら、私は自分の育った時代の記録を、あれこれの史書を夢中になって調べた。1904年~1905年の日露戦争に始まり、1923年の関東大地震、1936年の二・二六事件、1937年~1941年の日中戦争、さらに1941年の太平洋戦争、いやまことに戦争だらけの時代のことを調べたのだ。その戦争の歴史が終結するのは、アメリカ飛行隊の大空襲と原爆投下によるのだが…。 

 

 東京という大都市は木造建築を主としていた。祖父の病院、わが父母の家、学校・会社・店屋、これらすべてがよく燃える木造であった。木造といっても色々な種類があり、品格があり、立派な神社仏閣ありで、町の要所にあるそれらの建物はその場所の歴史を語るようであった。東京(江戸)という古都は、1603年の昔より260年余の歴史を誇る大都であった。私はこの東京の『新宿』という繁華街の近くの閑寂な居住地に育った。祖父の病院は下町と呼ばれる、海辺近くの町『三田』であった。そして更に東京の西郊外の『武蔵新田』に祖父の別荘があった。緑の森のある田舎の家で、週末になると祖父が自動車を運転し、私たち孫どもを別荘に運ぶのであった。 

 私の4人の兄弟姉妹、つまりは4人の孫たちが病院に来て騒ぐのを祖父は好んだ。われらの母は、三田の町にいる妹に出会えるのを喜んだ。では父は? そう父は土日の二日間は海辺の町に住む友人たちと麻雀にふけるのであった。 

 おたがいに喜びに充ちた週末から物語は始まる。祖父母、父母、子供たちが、おのおのの自由を楽しむ週末なのだ。が、人間には老化と成長がある。時は流れて当初の幸せをくつがえす。何よりも祖父の日記帳が、幸福一辺倒の生活をくつがえした。その経緯は? 私の小説をお読みなさい。ただし祖父の日記帳の中身を、そのまま小説に用いたことはなかった。祖父の筆致は軍艦の上の勤務のせいか軽妙さに欠けている。また祖父の文章の「第一人称」は積みかさなると表現力が落ちるので、注意深く筆をはこぶ必要がある… 

 ともあれ、メシェリャコフ氏よ、ロシア語への翻訳を成就されたことに心より感謝します。私は祈ります。ロシアの読者の方々よ、みなさんがこの長編小説を読まれたことで大きな幸福を得られますように。 

 

 以前のこと、私の『宣告』という長編小説がロシア語に翻訳出版された。訳者はタチヤーナ・ソコロワ=デリューシナさんで、旧ソ連時代に『源氏物語』の翻訳をした人であった。ところで私の『宣告』という小説は、何人もの死刑囚が登場しては死刑を執行されて姿を消すという物語であり、翻訳にはほぼ10年の月日が使用され、2013年にペテルブルグのギベリオン社から、850ページの大冊として刊行された。この時、ロシア側の翻訳者と出版社を探してくれたのが、元東京大学教授(現在は名古屋外国語大学副学長)の沼野充義氏であった。 

 『宣告』よりも長尺である『永遠の都』の出版を計画するとは、この出版不況の時には不可能であると誰しもが思うのが普通であったろう。この不可能な思いを乗り越えてしまったのが日本人とロシア人の友情であり、結束であり、日本の現代文学に対するロシア人の興味の深みであったろうか。 

私が『永遠の都』のロシア語訳を思いついたのは2016年の夏ごろの事であった。私の相談を受けた沼野充義氏が、メシェリャコフ氏の名前をあげられ、私はすぐに賛成したものだった。しばらくして同氏が翻訳を引き受けてくれたと報告された。同年の11月、同氏はスーツケース2個、ほぼ46キロの本を持ち帰ったと告げられた。同氏の奥さんは、夫と同じく日本文学の専門家で、和歌の優れた研究者であるとも教えられ、ひょっとしたら翻訳チームに加わってくれる可能性があるとも教えられた。 

2017年の春までには、7章について7人の翻訳者が定まり、一斉に翻訳作業が進発したと告げられた。2018年春までに各自の翻訳作業が一応終り、メシェリャコフ氏が各自の翻訳、文体、その他について点検する予定とも告げられた。

201812月に、サンクトペテルブルクのギベリオン社と翻訳本の出版契約をし、20191231日までに出版をすることを約束してくれた。

ところで昨年2019422日、私は90歳になった。老骨に鞭打って働いてきた。私にとって、このロシア語の翻訳出版はこよなき贈り物である。


 

 

 

 

 


 
ロシア語版『永遠の都』 全3巻