私は二人の死刑囚と親しくつきあった。
まず正田昭(しょうだあきら)がいる。1956年4月、私が東京拘置所の医務部に医官として勤めた時に出会った。
彼は慶應義塾大学出身で、有名人であった。京都で逮捕された時に大勢の新聞記者を前に「大学では殺人を犯罪だという教育を受けなかった」とうそぶいたからである。しかし私が会ったときには、カンドウ神父の導きで洗礼を受け、人が変わり、柔和な人物になっていた。物静かで礼儀正しい。1929年生まれ、つまり私と同年の青年であった。
東京大学医学部を卒業して精神医学教室に入った私は殺人犯の犯罪心理学に興味をいだき、東京拘置所の法務技官となって死刑囚の研究を始めた。死刑囚には拘禁ノイローゼになる人が多く、この研究に対して矯正局は協力してくれたため、数多くの死刑囚を訪問し対話し記述することができた。そういう環境のなかで、正田昭は死刑囚の心理を探る得難い人物であった。
1957年秋、私はフランス政府給費留学生として、パリで犯罪精神医学を学ぶことになった。フランスの刑務所を訪れ、折から開始されたアルジェリア独立戦争で騒然としたパリの刑務所を訪れることができた。日本における死刑囚と無期囚の観察記録を持って渡仏したので、日本とフランスの死刑囚と無期囚のノイローゼがよく似ているのに気が付いた。この発見のため、留学中の私は自信を持って研究論文を書き上げ、フランスの医学心理学雑誌に発表することができた。
1960年に帰国してから、正田昭との交友が復活した。以前は医師と死刑囚との関係であったのが、友人として文通しあう仲になった。30歳代の二人は哲学、文学、時には神学を遠慮なく吐露して文通しあった。
彼との手紙の往復は、1967年8月から69年12月のあいだに繁くなる。当時、東京医科歯科大学犯罪心理学教室助教授だった私は犯罪学の学会誌であった「犯罪学雑誌」の編集長をしており、死刑囚の獄中記の連載を彼に頼んだので、編集事務として、彼と頻繁な意見の交換をする必要があったのだ。
ところで彼の死は、多くの死刑囚がそうであるように、突然来た。それは簡潔な別れの葉書であった。
「一九六九年一二月八日
†主の平安
加賀乙彦先生
とうとう最後の日が明日と告げられました。
先生、いろいろ、ありがとうございました。
もっと多くの事柄について、先生と語り合い、教え
ていただきたいと思っていましたのに、死はやはり
不意にやって来ました。
この死について、よくみつめ、考え、祈りながら、
私は〈あちら〉へゆきたいと思っています。
母と私のために、お祈り下さい。
では先生、
さようなら」
病死とは違い、刑の執行には前触れがない。突然の永遠の別れであった。彼の死後、私以上の熱心な文通者や、息子をカトリックの信仰に引き入れた母親が現れた。正田昭は、奥の深い人物であった。彼は私のために、読書ノート、獄中日記、創作小説など、山のような文章を残してくれたのだ。私はそれらの文章を整理しては出版していった。『獄中日記・母への最後の手紙』(女子パウロ会1971年)、『ある死刑囚との対話』(弘文堂1990年)、『死の淵の愛と光』(弘文堂1992年)である。彼が獄中で出版した『黙想ノート』を再販してもやった。
これらの正田昭の「実録」を発表しながら私は彼をモデルにして『宣告』なる題名の小説を1975年1月から78年7月、雑誌に連載した。この小節の連載を終えて、青年時代の死刑囚と無期囚の研究から始まった私の死刑囚熱はやっと収まった。いくつかの短長編を書いた後、1986年1月から雑誌に、戦争時代のある一家の物語を連載し始めた。これが終了して、さらに推敲のうえ『永遠の都』となづけたのが1997年4月のことであった。この続編が『雲の都』で終了したのが2012年1月である。私は82歳になっていた。何を言いたいのか。
私は人生の始めに死刑囚に会い、人生の終わりに別の死刑囚に出会ったと言いたいのである。
もう一人の死刑囚の名前は純多摩良樹(すみたまよしき)である。
ある日のこと、部屋の整理をしようと薄っぺらな大学ノートや歌集や雑誌や手紙の束や、要するに埃だらけの棚につみあげた大小の紙束を調べているうちに、『日本の精神鑑定』という大きな本や、四六版の歌集、手紙などの束が塔を崩して床に落ちた。飛び散った手紙束を調べると差出人は純多摩良樹、宛名は加賀乙彦であった。この男、思い出した。横須賀線爆破事件の犯人だ。小柄な大工で、口の発音障害があり、優れた歌人として知られている人だった。
『日本の精神鑑定』は現代において、突出して奇妙で珍しい犯罪者の精神医学的鑑定を集めた専門書であり、東京医科歯科大学犯罪心理学教室が鑑定を行っていたし、この本の編集をしていた。その教室で私は1969年3月まで助教授をしていたが、この年、上智大学心理学教室の教授となっていた。従って純多摩良樹の犯罪も、鑑定の結果も微細なところまでよく知っていた。彼が電車に爆弾を仕掛け乗客一人を殺し、複数の怪我人を作ったことも、獄中の彼の動静、とくに短歌を詠むのに長けていて、次第にこの領域で抜きんでて、名前を知られるようになっていたことも、よく知っていた。
私は東京拘置所の彼を三度訪れた。彼は自分の歌集を出版したいと希望していて、私の援助を望んでいた。私も自分にできる出費ならば彼を助けようと思っていた。この問題に彼も本気になっていたとき、不意に死刑が執行された。
彼が私にあてて書いた最後の手紙は、かなりの長尺である。そのほんの一部を写してみよう。
加賀先生に最後のお手紙を書かねばならない日がやってまいりました。数時間後の旅立ちに備え、こうしてお別れの筆を執っている次第です。〈お迎え〉のドアが開いた時、私はまったく不安も動揺もありませんでした。平安な気持で面会にでも行く足どりでした。所長さんに、お世話になったお礼を述べ、握手させて頂きました。このゆとりに自分自身が不思議でした。
そこで、最後まで先生にお世話をおかけしますが、歌稿と上半紙の作品をコピーにして、住所録の〇印の方々一四名にご送付いただきたくお願いいたします。最後までのわがままをどうかお許し下さい。上半紙の歌を原稿箋に清書している時間がありません。これを以って、私のささやかな歌集としたいのです。
信仰的には御国への準備はできていました。
ストの影響と解釈しますが、家族の者と会えずに逝きます。故郷の最上川が目に浮かびます。あの、最上川があるゆえに私は歌を作ってきました。家族の者と会えなかったけれど、教誨師のK先生は最後までよくして下さいました。これぞキリストに在る洵の兄弟と思います。キリストを信じてきてよかったです。まことの平安が与えられました。書きたいことが次から次と浮かびます。しかし、もうお別れです。
加賀先生にはくれぐれも、お身体を大切にされますように。ほんとうにありがとうございました。
夕食しながら長く談笑してしまい、時間がなくなりました。
それでは行ってまいります。
純多摩良樹
一九七五年一二月四日夜更
正田昭と純多摩良樹、若い、私と親しかった二人の死刑囚よ。年老いし私は、さようならを告げる。
『ある若き死刑囚の生涯』
ちくまプリマー新書刊