あけましておめでとうございます。
2024年は、元旦から地震、火事、事故がたて続けに起こるという、大変な年明けとなりました。
戦争の状況も悲惨ですし、祈りによって心を寄せつつも挫けそうにもなります(苦しんでいるのは、当地の方々ですが)。
天から「希望する力」をしっかりと汲み取って、光の中を歩んでいけますように祈ります。
能登半島地震の募金受付が始まっています。
カリタスジャパンの被災者支援活動への募金
被災したカトリック名古屋教区への募金
以前のお話
参加者の方のご質問
極限状況において、自分がどこまで「人間」でいられるかということを考えるのが恐いんですよね。
東日本大震災のときに、「水が来る」ということで、それをみんなに知らせるために鐘を鳴らしたり、放送をし続けたりという役職の方が、最後まで、ギリギリまで頑張って、ご自分が亡くなられた。本当に最期まで「人間」として亡くなられた方、そういう話を聴くと、自分もそうありたいけれども、どこまで自分が「人間」でいられるのかなと挑戦を受けているので、それが災害よりも恐いことかもしれないと思う。
『人間らしさに踏みとどまる。
それは点数制じゃないんで、どこまでかって言ったら、まあ、言ってもみんなそこそこなんで、
そうは言っても100点はありえないから、まあ、10点、15点でも取れればいいと思っていたらいいと思うんだけど、
少なくとも、「そういう方向」が素敵だ、と。
「恐い」って言うけれど、逃げちゃう自分が恐いってことでしょ?
問題は、そのときに「聖霊の働きがきっとある」っていう信頼感。それだけ持っていれば、全然平気です。
何か起こったときに、きっと聖なる霊が働いて、少し、見返りを求めない、人間らしいことがきっとできるっていうふうに、信じて。
働くのは、結局あなたではないわけだから、そんなときに素敵な力が、聖なる霊が働いてくださいって、いつも思ってたらいいんじゃないですかねぇ。
試練のときは、恵みのとき。
聖なる霊が働いて、他者とつながる喜びを生きて、そして一日一日やってまいりましょう、と。
思いのほか、みんな親切。捨てたもんじゃないですよ。
宗教関係なく助け合うし、人間らしさっていうものを発揮する場であるっていうのは、
災害の地でよく耳にすることですよね。
いつくしみ深い天の父よ
私たちを出会わせてくださったことを感謝いたします。
またさらに、試練のとき、病のとき、弱っているとき、失敗したとき、クヨクヨしているとき、焦っているとき、怒っているとき、いろいろなこの弱い現実を抱えている私たちが、
お互いに寄り添い、助け合い、
ほんとに人間として、生きている喜び、神の愛に目覚める幸い、
お互いにつながる、そのような感動を惜しみなくお与えください。
この世界に生まれてきて、こうしてお互いに、共に他者でありながらも祈り合う、家族的な出会いをもてていることを心から感謝するとともに、
いっそう多くの人に、そのような恵みを広めてください。
私たちの主キリストによって』
アーメン。
Lydia