昨日の福音朗読箇所は、ルカによる福音21章29-33節。
日大アメフト部廃部の話などもありました。
いろんなことがふいに起こります。
もしかしたら、自分が大切にしていたものが消えてしまうこともあるかもしれません。
・・・とはいえ、明日から待降節。クリスマスを準備する季節が始まります。
まことの希望に向かって、何か、しっかり深めていきたいという気持ちになったお話です。


『 ありがたい言葉というか、力強い言葉というか。

「わたしの言葉は決して滅びない」(ルカ21・33)という言葉を今、聴きました。

世の中の言葉は、なんだかいい加減な言葉が多いので、まあ、そんなもんだと言えば、もう最初からね、そんなもんなんですけど、

人間の言葉って、恐れから出てくる言葉だったり、攻撃的な言葉だったり、そんな中で、なんだか諦めに近い気持ちもある。

自分もわりとこう、偽善的であったり、自己保身であったり、なんかこう、人間の言葉って、傷つけ合うこともあるし、「言葉」ってなかなか大変ね~って。

だからあんまりしゃべらないほうがいいのかもねって、そんな気持ちにもなります。

でも、神さまが与えてくれたわけですから、言葉っていうものを。

これ、他の動物にないんで、なんかとってもいいものであるはずだし、それを「ちゃんと使わないとな」っていう直観はあるんだけど、うまくしゃべる練習も・・・、うちの父親は「しゃべり方教室」っていうのに通ってましたね。

あの人、シャイだったんで、人前でしゃべんなきゃならない時に、どう話していいかわからずにすごく困ったんだと思うんですよ。

・・・神さまが、なんでね、人間に言葉を与えたんだろう。

これはもうはっきりしていて、愛し合うためですね。

みんなが助け合って、仲良くして、ゆるし合って、そしてほんとに、「神の国」とイエスが呼んだ、みんなが平等で一緒に幸せに生きていける、そんな世界のために、神が言葉を与えた。

人間は、神の国をつくり出すことができる。

戦争のような、反・神の国みたいなものもつくり出しますけども、そういうものをつくり出す言葉もある。煽って、支配して、間違った洗脳をして。

そういう言葉もあるけれども、神さまが本来与えてくれた、愛し合うための言葉っていう、その言葉をちゃんと使えるようにならないと、人として生まれてきた意味がないというか、その愛し合うための言葉を語るために生まれてきたっていうようなところもあるので、ちゃんとそれは語らないと。

それで、もう1回、イエスさまの言葉を読み直してみると、

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(ルカ21・33)

そういう言葉があるんですよ。

神の言葉とでも言うべき、そういう言葉。

それは決して滅びない。

ぼくらが口にしている、いい加減な言葉は全部消えていきますけれど、

愛の言葉は決して滅びなかったりする。

というか、永遠に残るその言葉こそが、この私として、神の国に響いていくし、神の国をつくっていくし、永遠に私は生きて、「永遠」ってまあ時間を超えたような、「本物の」って言うような意味ですけど、そんなような私として、やがて天に生まれでていくわけです。

その時、この準備期間中にこの世界で語った愛の言葉だけがちゃんと天に届くんですよね。

汚い言葉とか、ずるい言葉、そんなのも自分らしさではあったのでね、この私の一部として、笑い話みたいに残ってはいるんだけど、ただ、天の御国で本当に語られるべき言葉は、地上でなかなか語られていない。

でも地上できちんと語った愛の言葉は、天上に響く。

それが天の御国ではちゃんと語られて、そういう全天に満ちている天の言葉がこうわれわれのもとにもちゃんと届きましたっていうのが「イエス・キリスト」っていう出来事。

聖書に、イエスは言葉だって、ヨハネ福音書の一番最初に書いてありますよね。

「初めに言(ことば)があった」(ヨハネ1・1)

そのみ言葉が生まれてきたんだ。まあ、み言葉っていうか・・・愛ですよね。

愛って、ただじーっと見つめて、愛してるって思ってるだけじゃ、伝わらないじゃないですか。うすうす感じるっていうのはありますけどね。

やっぱりどこかで、「きみが大切だ」とか、「おまえを信じてるよ」とか、「あなたと一緒にいたい」とか、

しまいに、イエスの言葉だったら、「あなたたちのために、死んでもいい」ですよ。

そういう愛の言葉を語ったときに、愛ってちゃんと通じる。

そこはやっぱり言わなくっちゃってことですよね。

だから、神が、この私たちに愛の言葉を語りかけてくれた。

おまえを本当に望んで生んだんだよ。

今も愛しているんだよ。

そんなおまえが大好きだよ。

おまえのためなら命捨ててもいいよ。

そんな言葉。イエス・キリストはそういう言葉として、この世界に生まれてきた。

だから、そういう言葉を語るし。

まあ、及びもつかないけど、そんな言葉を私たちも真似して、少しは口走って、なかなかうまくいかないけれど、

「決して滅びない」という、このイエスの言葉。単に口から出てくる言葉だけじゃなく、イエスのやったわざとか、イエス自身が言葉だっていうんだから、そのイエスの存在とか、

そういうものに私たちも触れて、

 

永遠なる言葉に自分もちょっと響き合いたいというか、

 

そんな言葉の一部になりたいというか、死ぬまでにちゃんとそんな言葉も口走りたいと思うわけですよ。

第一朗読(ダニエル7・2-14)は、ファンタジー映画みたいなね、壮大なビジョンが語られていましたけど、

言ってることは非常にシンプルで、この世は禍々しきものであり、暴力であり、恐れであり、だけどもそこに、「日の老いたる者」、太陽のような神がちゃんと現れて、そこに永遠なる、この世界をほんとに導いて治める御方が現れるっていう、そういうビジョンですね。イエスのことです。

それはだけど、権力者としてとか、武力ではない。

「諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え
 彼の支配はとこしえに続き
 その統治は滅びることはない」(ダニエル7・14)

この、「人の子」のような者が天の雲に乗ってやって来るのはイエスのことを預言してるわけですけど、

これは、もうこの世の武力、暴力、軍隊で統治するんじゃない。

愛の言葉で統治する。

・・・すごいですね。やっぱり言葉って大きいですよ。

イエスそのものが神の愛だし、しまいには十字架上で弟子の身代わりになって死んでいったわけですけども、

実際に、実行して、そのわざで神の愛を伝えた。だから、イエス自身が言葉なんですよね。

神の愛の言葉。

まあ、親が子どもをどんだけ愛してるって言ったって、なかなか伝わらないのが、やっぱり何か行動で、そのわざで、ようやく親の愛が伝わるなんてこと、あるじゃないですか。

神が本当に、一人ひとりの神の子を望んで生み、愛して育てたということをイエスはきちんと私たちに伝えた。

だからイエスは、神のみ言葉であって、その言葉は聴く必要がある。

何も知らずに生きて、迷いのうち死んでいく人もいますけども、あまりにね、神の、まことの親の愛の言葉を知らずに生きているのはもったいない。さみしい。

それで、キリスト者たちは、この福音と呼ばれる神の言葉を伝えてまわるし、語り続けて二千年。

ぜひ、ちゃんと聴いていただきたい。信者になって、何十年でもね。

まだちゃんと聴いていないっていうこと、あり得るんですよ。それは、伝える側の責任でもあるんだけれども。

今日、このミサ、みなさんのためにお捧げしてますけれども、このミサ自身が、神の言葉であるっていうことをちょっとイメージして、聴いていただきたい。

ミサは言葉で溢れてますけど、全部、神からの言葉。

われわれが神に祈る言葉であり、神からの宣言であり、「おまえをゆるしてるよ」という、罪のゆるしのためのミサ。

このミサを、み言葉として受けとめて、聖なるパンを、イエスの愛そのものとして受け入れて、その言葉によって生かされているという喜びを味わって、言葉によって、神と結ばれるという、その幸いを体験していただきたい。』


それから、神父さまの霊的息子さんたち、長男の大西神父さまのご活躍やさらに次の世代に続いてつながっていく召命のお話もありました。
聖霊が休むことなく働いていることに信頼して、協力していけますように祈ります。

来週は、分かち合いです。
お気軽に遊びにきてくださいおひつじ座おひつじ座

Lydia