贈りもの

主任司祭 晴佐久昌英

 

 このたび、『贈りもの』と言うタイトルの新刊書をキリスト新聞社より出版いたしました。クリスマス説教集として、ここ数年のクリスマス前後の説教を編集したものです。その巻頭に「はじめに」と題して書いたものを、宣伝を兼ねて以下にご紹介しますので、興味がわきましたらぜひ拙著を手にして頂けたら幸いです。

 

 

はじめに

 三十五年前から毎夏、奄美群島の小さな無人島の浜で、親しい仲間たちとキャンプをしています。目の前のサンゴ礁の海に潜ったり、拾い集めた流木で焚火をしたりする生活は、人類が本来持っている感性を目覚めさせてくれる、貴重な体験です。

 ある年、五日目にして早くも用意した食料が尽きかけたことがありました。おまけに魚は獲れないし、貝も見つからないしで、もう撤退するしかないねって相談していたとき。はるか水平線の向こうから、小さな船が近づいてくるではありませんか。よく見れば、顔見知りの漁師さん。ぼくらのことを心配して、漁のついでに寄ってくれたのでしょう、浜に舳先を近づけると、「これ、うまいぞ」と、獲れたての魚を数匹投げてよこしました。一同歓声をあげ、砂の上で跳ね回る魚を追い回したものです。お礼を言うぼくたちに、後ろ姿で手を挙げて去っていく漁師さんの、カッコよかったこと! 魚は小ぶりのカツオで、その場でさばいて刺身にして食べたのですが、腹が減っていたこともあり、涙が出るほどおいしかった。忘れることのできない、うれしかった贈りものの思い出です。

 

 みなさんには、贈りものに関するどんな思い出がありますか。子どものころの誕生日プレゼントにワクワクしたとか、恋人に花を贈ってドキドキしたとか、色々あることでしょう。そんななかでも、本当に困っている時に思いがけず、それこそ「水平線の向こうから」ふいに現れるような無償の贈りものほど、ありがたい贈りものはありません。お返しを期待するとか、こちらの好意を伝えるためとか、なにか理由のある贈りものとは違って、ただ贈りたい、喜ばせたいという純粋な心に満ちたそんな贈りものこそは、この世界の本質をよくあらわしています。贈りものは、単なる物ではありません。贈る側の、暖かい心そのものです。つまり、純粋な贈りものは、この世界が暖かい心に満ちているという事実の、目に見えるしるしなのです。

 

 クリスマスは贈りものの季節ですが、それは、神さまが神の子たちに、これ以上はないという贈りものを贈ってくれたときだからです。神さまはまことの親ですから、すべての神の子たちをわが子として愛しています。しかし、それを知らずに寂しい思いをしたり、不安を抱えたりして苦しんでいる人があまりにも多いので、なんとかご自分の愛に目覚めてもらおうと、「目に見える愛」であるイエス・キリストを贈ってくださいました。イエスを見れば、神の愛が見える。こんなありがたいことがあるでしょうか。親からもらうプレゼントは、単なる物ではなく、親心そのものです。つまり、イエス・キリストこそは、地上を生きる人類に天上から贈られた、最も聖なる贈りものだと言えるのではないでしょうか。

 

 真の贈りものは、いつだって「向こうから」やってきます。しかも、すべての人に、すでに、与えられています。問題は、あなたがそれに気づいているのかどうか。気づいて、素直に受け取っているのかどうか。もしも、「自分はまだ受け取っていない」とか、「自分は贈られるにふさわしい存在ではない」とか思い込んで、最高の贈りものを受け取れないでいるなら、これほどもったいないことはありません。神があなたに贈るのは、あなたがそれを受けるにふさわしいからであり、贈られる価値がある存在だからです。神はなぜあなたを生み、育て、あらゆる恵みを与え続けているのでしょう。それは、ご自分を贈りたいからです。

 クリスマスシーズンは、特にそのことを意識して説教していますが、思えば、神の愛を説く説教もまた、神からあなたへの贈りものでしょう。あなたは、それを受けるにふさわしい存在です。何度繰り返しても足りないほどに申し上げますが、あなたはこの世で最も聖なる贈りものを受けるにふさわしい存在です。受け取っていただけますでしょうか。受け取ったその時、気づくはずです。あなた自身もまた、地上世界に贈られた尊い贈りものだと。

 

 

 

 

 

(2023年10月1日号)