今日の講座も色々な話題がありましたが、ミサのお説教でも話に出た、ベラルーシのポーランド国境に中東の移民・難民が何千人と押し寄せている話が一番心に残りました。


「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17・21)って、イエスさま、言いましたけど、

この集いの中に、神の国が始まっている。

そういう思いで、私たちは集います。

さらにさらに言うなら、「私たち」って、この私たちだけじゃない。

全世界、実はみんな、「私たち」なんですよね。

人類みんなが私たちっていうことでいえば、まさにこの「地球」が神殿だってことでしょう。

そう思うと、このイエスさまのお言葉、よくわかりますでしょう?

イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。
「こう書いてある。
『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』
ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。
(ルカ19・46)

わたしの地球は、祈りの地球でなければならない。

ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にした。

朝刊をパラリと見たら、ベラルーシのことが載っていて、

やっぱり、どうもベラルーシの旅行会社が20万円くらいで中東の人たちを集めているんですよね。

その裏には、政治的な思惑があるんじゃないんですかね。

EUの一番の問題である難民を利用する。

中東からベラルーシに来れば、ポーランドに渡れるぞ、みたいなデマを流しながら、大勢集めて、国境に送り込んで。

ポーランドからは軍隊が出ているわけですが、

難民の側は、鉄条網を切る大きなハンマーや閃光弾って書いてありましたけど、そんな物持って飛行機に乗れるわけない。

貧しい難民がベラルーシに渡ってから手に入れている物でしょ? 

背後で何かしている存在がいるわけですよね。

一番困っている、一番弱く、助けを必要としている人たちを利用して。

中にはもう凍え死んでいる人もいる。

その、なんと言うか、人間のやることの残酷さというか、はしたなさというか、

「あなたたちは、それを強盗の巣にした」(ルカ19・46)

イエスさまは、怒っておられるわけで、

我々の心から、商売するような心を追い出していただかなければならないですよね。

自分たちでやめようって言っても、なかなか回心できない。

イエスさまに追い出していただきましょう。

そのためにも、ほんとにイエスさまのことを学び、信じ、そして回心が必要です。

このミサは、ポーランドの国境で、寒さのあまり凍死しそうな子どもたち、飢え死にしそうな彼らに、

神さまが特別のいつくしみを示してくださり、

その近くにいるキリスト者たちが特別の配慮をして、

そして私たちも、なんらかの祈りと行動で応援ですきますようにとお捧げいたします。』


『 教皇フランシスコの回勅が出たんですね、「兄弟のみなさん」。

宣伝のところに載っている何行かだけですけど、ご紹介します。

「どうか「あの人たち」で終わらせず、ひたすら「わたしたち」でありますように」

いい言葉ですよね。

難民たち、移民たち、紛争の地域では到底まともに生きていくことができない人たちが山のようにいる。

ベラルーシは、彼らを交渉材料の道具にしようとしている。

EUだって、清く正しいわけじゃない。

この寒い中、放水してね、0度っていうときにみんなを水浸しにするんですよ。

子どもが泣いてね。

木を集めて、たき火をしているけれど、何千人となってくると、色々な物がみんなに行き渡らないでしょうし・・・。

色々抱えている中で、でもさすがにEUには、「わたしたち」感っていうものに対する伝統といいますか、キリスト教的な習慣といいますか、がありますよ。

それはもちろん、中東にもベラルーシにもあるでしょうけど、

ポーランドはカトリック国なんですけど、ヨハネ・パウロ二世教皇を生んだ。

昨日のニュースで、ポーランドに入り込んで来た難民がいるんだけど、行くあてもないし、もう食うものも食ってないし、寒いから凍え死んじゃうじゃないですか。

そうすると、道沿いにですね、

緑のランプが灯っているんですよ。

あれは、どういう伝統なんでしょうね。

あの、緑のランプは何かっていうと、

「このランプが灯っている家は、難民を保護しますから、どうぞお訪ねください」なんですよ。

トイレ一つだってね、ありがたいじゃないですか。

命をおとしかねないギリギリのところで、緑のランプが灯っているんですよ?

ピンポンってしたら、「どうぞ、どうぞ」って、温かいスープを出して、寝床を用意するんですよ。

かっこいいねぇ。

誰が言い出したのか、どういう習慣なのか、あっちこっち見れば、緑のランプ灯しているんですよ。

なんかそういうのが、「わたしたち」なんですよね。

家に入れるって、もうすでに「わたしたち」じゃないですか。

「あの人たち」、かわいそうだから、食べ物を持っていってあげようっていうのと違うでしょ。

線の引き具合が違うじゃないですか。

持ってって、食事与えて、帰って来て、「ああ、いいことした」って、

そのあと死んじゃっても知りませんって。

でも、「わたしたち」ってそうはいかないわけですよ。

私たちも、もうちょっと小さい規模で、「わたしたち」って言えるような集いを、工夫していっぱいやっていったらいいと思うんですけどね。

 

「どうか「あの人たち」で終わらせず、ひたすら「わたしたち」でありますように。」のあとに、こう続いています。

「わたしたちには互いが必要で、互いに対して義務を負っていることに、はっきり気づけますように。」

私たちにはお互いが必要。あなたがいてくれるおかげで、私であれる。

みんながいてくれるおかげで、私は本当に安心できる。

みんながいてくれないと、「私たち」っていうこのつながり、仲間、家族がいないと、

私は私として生きていけません。

だから、お互いが必要。

私、やっぱりレインボーってすごく大事だと思うんですね。

レインボーカラーってシンボルでしょう?

一色に染め上げるっていうのは、恐いことですよ。

じゃなくって、「あなたは赤でいいよ。私は青です。緑もいいですね。黄色も素敵だね」、それがレインボーってことでしょう?

大事なのは、、赤と青が混ざりましょうって言ったら、これ、よろしくないんですよ。紫になるだけ。

赤と青が混ざって、両方紫になって良かったね、と言うとしたら、ちょっと恐いじゃないですか。

私、赤だったのに、なんだか青に混ぜられて、紫になっちゃった。

結局、どんな赤も、どんな青も、混ぜ合わされて、紫になっちゃったって、恐いですね。

洗脳というか、閉じ込められるというか、恐いことです。

私は一番そういうことが恐いタイプなので、自分が何色かはともかくとして、

自分は自分のまんま、生きていきたいし、受け入れられたい。

紫になったら、もう青ができないわけですから、

本当にレインボーって大事ですよね。

それぞれの色のまんまで一緒にいるってことでしょう?

全部混ぜたら、灰色になる。

美しい虹がかかるのは、希望のしるし。

ぼくらがこうしていても、たとえば10人いれば、10色ある。

それぞれの色がそのまんま、そこにいる。これが美しいわけで。

なくていい色はない。どれほど、みんなから嫌われていようとも。

どれほど、ひどい犯罪者であろうとも。

どれほど、なんの役にも立たないように見えたとしても。

むしろ、その色こそがそこにないと、もう虹が成立しません。

レインボーフラッグが表しているのは、それですよね。

 

「わたしたちには互いが必要で、互いに対して義務を負っていることに、はっきり気づけますように。」

 

全部そのまんまを受けとめる、神はそうしているんですよね。

 

赤は赤のまんまでいい、と。カケラも紫にいたしません。

 

みんな美しいそのまんまで受け入れた時に、虹が完成する。

 

神がそれを7色ならぬ、70億色でやってるわけですね。

 

全部をそのまま受けとめる。』





Lydia