鰻を持って自宅へ帰ると、母がすぐに出てきてshibasakuraさんに挨拶をし、彼女も耳の遠い母に、とても丁寧にご挨拶をしてくださいました。



6人掛けのテーブルで、

shibasakuraさんと母が対面になり、間に私が座るという形になったのですが、私が以前から彼女には精神的に助けて頂いていた話を聞いていた母は、まるで昔からの私の友人を連れてきたかのように、沢山話しかけました。しかし、今まで触れてはいなかったのですが、shibasakuraさんと私には大きな言葉の壁が立ちはだかっていたのです。


そう。その壁の名は『方言』


私は、一応気をつければ標準語は話せますが(イントネーションは九州弁)、ものすごい丁寧語か謙譲語になり、お相手にはとても距離を感じさせてしまうと思い、分かりづらくて申し訳ありませんが、『博多弁よりの標準語もどき、だいぶ佐賀弁』でお話ししていました。しかし、話に夢中になると『ほぼ佐賀弁』になってしまい、たまに聞き返されることもありました。


しかし、母は。佐賀弁でも、かなり地方色の強い地域の、母の生家で独自の進化を遂げた、親戚中でしか通用しない言語を操ります。私はその親戚の中で育っているので普通に聞き取れますし、本来の私もかなりそちらよりの喋り方をしています。shibasakuraさんに対しては、母なりにテレビで学んだ標準語にかなり近い話し方をしているのですが、大部分が伝わっでおらず、母質問する→私が博多弁よりの標準語に訳す→shibasakuraさん大きめの声で返答してくださる→母耳が聞こえず私に聞き返す→母にわかりやすい母言語に訳して伝える

という私通訳型の会話になっていました。



その中でも。

shibasakuraさんがご主人さまを亡くされ、看護の道を選ばれてからの志しと学習意欲の高さ、難病をコントロールされながら身体にも精神的にも過酷な勉強と実習を重ねられ、そのモチベーションを最後の国家試験まで保ち続けられた強さ、そしてそのお優しさに感銘を受け、どのような生き方をされたらそのようになれるのか、どうしても知りたくなり、色々とプライベートの事までずけずけと踏み込んで伺ってしまいました😅


私の夫は、友人というものを持つ人ではなかったのですが、彼女にお願いして、ご主人さまとの楽しかったエピソードなどを沢山伺ったとき、まるでshibasakuraさんのご主人さまと、私の夫が初めて知り合い、一緒に同じ時間を過ごして笑っていてくれているような気持ちになったのですおねがい


まるで、亡くなって、止まったはずの夫の時間が、今になって急に動き出したような、不思議な、とても幸せな気持ちでした。


shibasakuraさんは昼は山を彷徨い歩かされ、夜は質問攻めにされ、大変な一日でお疲れになってしまい、申し訳ありませんでしたガーン



翌朝、shibasakuraさんの出発の時間にしっかり防寒をして起きてきた母は、当然のように車の後部座席に乗り込み、駅の駐車場で待ってるから、とそこで彼女とは再会を誓いつつ今回はお別れとなりました。



バスセンターで、7時発の空港ゆきの高速バスを待ちながら、30分程彼女のこれからのお仕事についてお話をしました。


私が勝手に、私が続けたかった在宅医療に関わるための一歩を踏み出す彼女に、自分の夢を託したかったのかも知れません。 


彼女のほうが色々な面で人生経験も豊富で、豊かな感性とスキルを持ってのスタートなのに、年齢が一つ下というだけで、まるで妹のように心配をしてしまっていました。


でも、色んな共通点があっても、お互い守るべきものも、すべてが違う自立した人間同士。


依存するのは間違っているので、またお互い自分の生活に戻り、目標に向かって供に研鑽しあえたらと思っています。 



彼女がバスに乗り込んだとき、急に涙が溢れてきました。ずっと我慢していたのに、もうくしゃくしゃになって泣いてしまい、バスの窓越しに、shibasakuraさんは色んなポーズをして笑わせようとしてくださいました。



最後じゃないから、またいつか。