『フェイス・イット』⑤ | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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おかげさまであの小林克也さんが

もちろん訳書でこそありますが、

 

それでも自分の名前が

表紙に印字されている本を

 

テレビカメラの前で

しかもあのセットの真ん中で

手にして下さっているという

 

次にもう一度あるかどうかという

大変貴重な映像を網膜に焼き付けて

 

興奮覚めやらぬ週末を

とっぷり過ごさせていただきました。

 

 

さて、是が非でもまっさらな状態で

読みたいと思って下さっていた方には

 

大体もうお手に取っていただけた

頃合いなのではないかと思います。

 

だからまあ、そろそろもう、

多少中身に詳しく触れても

大丈夫なんじゃないかなあと。

 

某所のレビューにも見つかる通り

本当、誰かに言いたくなる

エピソード満載の一冊なのですよ。

 

 

本書ですが、まず目次は

こんな具合になっております。

 

序文(クリス・シュタイン)

 

1 愛ゆえの子供

2 可愛い娘ちゃん、天使みたいだね

3 カチリ、カチリ

  〈客席証明〉

4 影に歌えば

5 生まれつきパンク

6 危機一髪

  〈幕間〉

7 発射と着地点

8 マザー・カブリニと電熱器の火事

9 伴奏部

10 〈ヴォーグ〉のせいにしましょ

  〈いないいないばあ〉

11 レスリングと未開の地

12 完璧な味

13 日々の習慣

  〈愛情の証〉

14 妄執/欲動

15 拇指対向性

 

謝辞

 

 

大体一章、訳文で各

原稿用紙五〇枚程度な感じで

 

実に丁寧に構成されているなというのが

まず最初の印象でした。

 

四章の章題に出ている

この“影”というのが

 

何を隠そう

クリス・シュタインのことでして、

 

彼との出会いがいわば

ブロンディの始まりな訳ですから、

 

そこまでのたっぷり三章分、

それ以前のデビー自身の物語が

仔細に描かれてもおります。

 

今回と次回はそこで

その辺りを少し掘り下げて

御紹介しようかと思います。

 

 

〈一章 愛ゆえの子供〉

 

生まれた時に浸からされた

産湯の光景を

覚えているという主人公を

 

いとも軽々と創造してみせたのは

かの三島由紀夫だった訳ですが、

 

実は本書もほとんどそれと

変わらないような挿話から

幕を開けていたりします。

 

いや、小説ではないはずなのですが。

 

出生名を

アンジェラ・トリンプルといった

フロリダ生まれの幼な児は

 

生後三ヶ月ばかりの時期に

母親の元から引き剥がされ

 

養子斡旋機関の仲介で

子供のなかった夫婦に引き取られ

 

デボラ・ハリーとなります。

 

この、義父母に初めて出会い

家に連れ帰られてきた日の光景を

 

デビーは覚えているというのです。

 

新しい家への帰路の途中

小さな動物園が

あるような場所へと連れていかれ

 

柵から逃げ出した大きな一頭に

母の腕の中で追いかけられていたと。

 

「嘘でしょう? それだって、

 貴女を連れ帰ってきた

 まさにその日の出来事よ。

 そんなの覚えて

 いられるはずがないわ」

 

この話を聞かされた際の

母親の言葉がこれだったのだそうで。

 

アヒルに鵞鳥に山羊、

それからあるいはポニーといった

 

まあ、いかにもありがちな

小動物園だったらしいです。

 

――思わず考えてしまいました。

 

生後三か月であればもちろん

“アヒル”も“鵞鳥”も“ポニー”も

 

それをそういう存在だと理解させる

言葉そのものさえまだ持たないはず。

 

それが記憶に残っているって

いったいどういうことなのか。

 

わかったのはただ、

あの『仮面の告白』の冒頭が

 

単に純然たるフィクションだったとは

迂闊に断ずることはできないのだなという

ただその一事のみでありました。

 

 

そんな衝撃的な幕開けの後には、

ニューヨークに隣接する

ニュージャージー州の住宅地で過ごした

幼少期が綴られていきます。

 

家が公園のすぐ隣だったことや

飼い犬が迎えることになった悲しい顛末、

 

森に見つけた崩れた小屋の残骸や、

あるいはNYの祖母の家の屋根裏部屋で

 

とりとめもない妄想に

いつまででも耽っていられるような

子供だったこと。

 

時折どこかブラッドベリの

作品世界のような手触りさえ

ちらほらと垣間見えてきます。

 

でも、こういうのが

七十年という歳月を経た今

 

これほどヴィヴィッドに

書けてしまうのも

 

きっとあの記憶力のゆえの

ことであるのかも知れないなと、

妙に納得してしまいました。

 

 

あとびっくりしたのは、というか、

デビーは僕よりほぼ二十歳上なので

当然といえば当然ではあるのですが、

 

出てきたテレビが丸かったこと。

 

金魚鉢みたいだったのだそう。

 

どうも、頭にでっかいアンテナが

載っかっているタイプだった模様です。

 

真空管ってやつでしょうね、間違いなく。

 

そして幼き日のデビーは

このテレビの前に座り

マンガとプロレスとに釘付けになります。

 

だから彼女のプロレス好きは

筋金入りどころではなかった模様。

 

「私はだからこの魔法の小箱の、

 極初期の真の信奉者だったのだ。

 電源を切った時に映像が

 小さな白い点へと収束し、

 ついには消えてしまう様子を

 見守ることさえ大好きだった」

 

こちらはテレビについての御本人の弁。

 

そして次第に、ラジオはもちろん

両親のレコードコレクションや

 

あるいは窓の外の例の公園で練習する

地元の素人楽団の演奏といった形をとって

 

音楽が少しずつ彼女の人生にも

入り込んでくる訳ですけれど、

 

四歳になった時に、両親から

自身が養子であることを教えられます。

 

その筆致もまた実に淡々としていて

ちょっとびっくりするほどなのですが、

 

それはやはり、

いずれ彼女が自分自身の

人生を読み解いていく

 

その鍵となっていたことは

間違いがない模様。

 

九一一とその後を語る箇所で

一旦区切りを迎える形となる

後半十三章の最後の部分で

 

このモチーフが

再び甦ってくる構成には

 

ほとんど小説的な巧緻をさえ

ついつい感じてしまった次第。

 

いえ、ですから本書は純然たる

ノンフィクションな訳ですが。

 

事実は小説よりも、とか

ついつい口に出したくもなります。

 

 

金曜の夜、小林克也さんも

仰っていましたが、

 

デボラの書く詞というのは

独特で非常に強力です。

 

その発想の片鱗を

十分に垣間見させてくれている

一冊であることは間違いないです。

 

一章の冒頭、つまり本書の

本当の本当のド頭は

 

彼女自身が結局は

ついに会うことのなかった

 

本当の両親の物語から

スタートしています。

 

――この筆致が実に不思議。

 

知り得た事実だけを元に

書き起こされただけの

箇所であるはずなのですが、

 

そして確かに、

必要最小限の情報だけで構成された

非常に短い描写なのですが、

 

痛烈に物語を感じさせる。

 

僕が個人的にブロンディの音を

リアルタイムで聴いていた頃は、

 

まだ英語などろくすっぽ

わかりもしなかった

時期だった訳ですけれど、

 

本書を通読し、訳していくうち

なんかこう、あれほど強烈に

世間を席巻していた理由が

改めて納得できた気がします。

 

 

さて、幼少期だけで

思っていたよりずいぶんと

長くなってしまったので、

 

今日のところはこの辺で。

 

続きは次回の講釈といたします。

 

初めてナンパされた話とか、

その辺りのネタになる予定。

 

でもこれもまたさすがデビーで、

まだ小学生のうちから

 

とてつもない大物ミュージシャンに

声かけられていたりするんですわ。

 

お楽しみに。