『アナザー・プラネット』② | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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さて、今回は改めてこちらの御紹介。

 

 

目下の僕の最新刊になります。

 

発売月内にやろうと思っていたのですが、

ついつい月をまたいでしまいました。

 

 

おかげさまで昨年五月末の

『安アパートのディスコクイーン』が

各方面で評判もよく、

 

本書とそれから次の

ブロンディのデビー・ハリーの

自伝についても

 

同じPヴァインさんでやらせて

いただけることになったような次第です。

 

ありそうでなさそうな

自伝的エッセイ第二弾。

 

もっとも、以前にも多少触れている通り、

ミュージシャンの自伝という意味では、

 

『安アパートの~』方が圧倒的に

いわば正史の位置にあります。

 

こちらですね。

 

 

ちなみに御本人も同書の後書きで

本作の内容について

こんなふうに述べてらっしゃいます。

 

「物語は起伏に富んでいる。

 極初期の時代には

 急激な上昇曲線とも

 いうべきものが見つかるし、

 中盤にはひどい出来事も起こり、

 ついには予期していなかった救済が

 どこからともなく訪れて、

 避けがたい引退と、

 それから最後の復活へと至る――」

 

しかしこうやって抜いてしまうと、

まるで面白い小説の作り方の

 

一つのガイドラインにも

見えてくるから不思議です。

 

まあそれはともかくとして、

同書はある意味この通り

 

一人のミュージシャンの物語として

すっかり完成しているし、

 

最終的に自身のキャリアと

母親になることとの狭間での

大きな選択という形で、

明らかな完結を見てもいる。

 

さて、これ以上何を書くつもりだろうと、

原書の『ANOTHER PLANET』を

 

ひもとくまでは僕自身も、

半ば以上に懐疑的でした。

 

――なんというのか、深かったです。

 

むしろ一筋縄ではとても説明できない

不思議な本といった印象でした。

 

語り手は『安アパート~』そのままの

トレイシーであることには

当り前ですがもちろん変わりはありません。

 

ペーソスというのがいいのか

思いがけないようなところでくすりと

つい笑わせられてしまう筆致も健在です。

 

でも何故だかこれ全然

ノンフィクションっぽく

ないんですよねえ。

 

いえ、圧倒的に描かれていることは

彼女自身のことばかりですし、

 

時には何かの研究書かとも思うような

詳細なリサーチや

文献の引用まで出てくるのですけれど、

 

それでもなお、なんだかどこか

ウルフやドラブルといった

英国の女流文学の系譜に連なる

 

それも一人称のスタイルを得意とする

作家たちの作品を

読んでいるような気持ちになりました。

 

 

たとえば開幕直後には、

故郷ブルックマンズパークへと向かう

列車の様子が描かれているのですが、

 

この辺りからしてもうすでに

『安アパート~』では

ほとんど見られなかったような

細部の描写へのこだわりが見つかってくる。

 

座席に捨て置かれた新聞紙、

人の気配の一気に消える乗換駅、

トンネルに吸い込まれる警笛、

 

そしてただ無慈悲に緑の度合いを

増していくばかりの窓の外の景色。

 

そうした要素が

いかにも映像的に綴られて

 

必定僕らもごく自然に

トレイシー自身の内面をたどる旅路へと

誘われていくことになります。

 

この箇所はもう冒頭すぐの

記述になるのですけれど

 

この段階ですでに、

彼女の乗っている列車が、

 

両親それぞれの生地界隈を

通過していることが

導入されてきているのが

 

全体を読み終わった時にまた

唸らされてしまうほど上手いです。

 

なんとなればこの本は

トレイシー・ソーンという人が

自らの少女時代を振り返るのと同時に

 

今母親となった立場から

親子の関係を捉えなおしてみる物語であり

 

かつ、自分の親たる彼ら二人を

見送らざるを得なかった

その記録ともなっているからです。

 

「本当に率直に言ってしまえば、

 私が本書の内容を

 ここまで書いてしまえているのも、

 二人が二人とも

 すでに世を去ってしまったが

 故であることは否めない」

 

本書の終わり間際では

トレイシー自身

このように述懐しています。

 

 

何故両親は自分をこの郊外で

育てることを選んだのか。

 

本書の根底にはこの問いかけがあり、

それは必定、

 

では郊外とはそもそもなんなんだという

疑問を喚起することになります。

 

いやまあですから、

ミュージシャンの自伝的エッセイで

あることは間違いないのですけれど、

 

音楽産業とか、そういうものとは

基本ほとんど関係なく進行します。

 

ですけれど、随所に出てくるモチーフは

やはりパンク勃興期を通過した人のそれで、

 

ボウイを筆頭に、スージー・スーに

ピストルズといった辺り、

 

そして一方のアメリカからは

ルー・リードにスプリングスティーンなどが

少女時代を彩った音楽として紹介されます。

 

そしてジョイ・ディヴィジョンや

マリアンヌ・フェイスフル

モンキーズに

マンフレッド・マンなどが引用されて、

 

これらが、先述の

“郊外とはなんぞや”という問いに対する

彼女なりの解明の

例証ともなっていったりします。

 

そういう意味では

回顧録という枠組みそのものからも

なんとなく外れてきてしまう。

 

ですからまあ、訳者としては

もしトレイシー・ソーンという人物の

人となりに御興味をお持ちいただけたら、

 

まずはとにかく

『安アパート~』に手をつけて

いただきたいのは山々なのですが、

 

ひょっとすると今回のこの

『アナザー・プラネット~郊外の十代』

単独で入っていただいても、

 

学生時代に文学部なんぞに籍を置き、

アップダイクやアーヴィングや

あるいはカーヴァーといった辺りの

 

当時現代文学として

紹介されていた作品群を

楽しんでいらっしゃった過去を

お持ちのような方には、

 

ちょっと懐かしい手触りを

呼び起こしてくれる本に

なっているかも知れません。

 

僕自身はそんなふうにも読みました。

 

ちなみにアップダイクに関しては

御本人もわずかながら

作中で触れていたりもします。

 

 

ラストもいよいよ大詰めとなったところで

一日限りのこの故郷への旅路に起きる

 

現実と虚構との境目が

不意に揺らいでしまうような

モチーフの導入には

 

思わず僕も、

上手いなあと膝を打ちました。

 

すごく静かな描写ではあるのですけれど。

 

 

では、今日のところはこの辺で。

 

最後になりましたが、デボラの方は

今の予定の発売日より

多少異動する可能性が高いです。

 

アメリカもコロナだけでなく

いろいろと落ち着かない様子なもので。

 

御容赦いただければと思います。