2人の女が1人の子をめぐって、どちらも自分が母親だと主張して譲らない。「引き勝った方を実の親と認める」。江戸町奉行の大岡越前守(えちぜんのかみ)忠相(ただすけ)は2人に、子供の腕を両側から引かせた。
▼痛がって泣く子供の姿を見て、1人の女が思わず手を離す。忠相は、その女こそ実の母、との裁定を下した。「子争い」は、忠相の名裁きを集めた「大岡政談」にある。実は中国・宋代の裁判物語の翻案らしい。今なら、DNA鑑定ですぐに決着がつきそうだ。
▼もっとも、DNA鑑定によって、血縁関係がないことが明らかになれば、父と子の関係は解消されなければならないのか。科学技術の発達は、新たな「子争い」を引き起こしている。
▼最高裁を舞台にして争っているのは、関西の夫婦と北海道の元夫婦である。生まれた子供はともに、夫の子として出生届が出された。しかし妻は、夫とは別の男性と交際していた。いずれの子供も99・99%の確率で、夫ではなく交際していた男性の子であると判明している。
▼すでに子供とともに夫と別居している妻側は、生物学上の父親を法律上の父とするよう求めている。これに対して、夫側はあくまで父子関係の維持を主張する。血がつながっていなくても、子を思う気持ちは変わらないというのだ。民法が想定していなかった事態を前にして、平成の奉行たちの悩みは深かろう。何より心配なのは、2人の父から両腕を引かれる子供たちの、心の痛みである。
▼それにしてもと、2カ月前に書いたコラムを思い出す。「真実より信じることの方が大切」。結婚生活についての「名言」を紹介したばかりだ。DNA鑑定という「真実」がもてはやされるようになった昨今では、もはや通用しないのかもしれない。