【夫婦の日本史(49)】「歌」を発見した大宰府赴任 渡部裕明 | 毎日のニュース

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 □大伴旅人(665~731年) 郎女(?~728年)

  『万葉集』で夫婦愛を歌った歌人といえば、大伴旅人(たびと)を挙げねばならないだろう。彼の妻は大宰府(福岡県太宰府市)への赴任に同行して亡くなった。その死を悼んだ多くの作品は、私たちの胸を深く打つ。

 大伴氏は6世紀初頭に出た金村(かなむら)が継体天皇擁立に尽力するなど、朝廷を支えた名族だ。一時衰えたが、旅人の父・安麻呂らが「壬申の乱」(672年)で大海人皇子に味方して、勢力を盛り返した。安麻呂は大納言にまで出世し、旅人も順調に貴族の階段を上っていった。

 神亀(じんき)4(727)年、中納言だった旅人に、大宰帥(だざいのそち)の兼務命令が出された。「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれ、大陸に向かって開かれた出先機関・大宰府の長官である。このとき旅人、63歳。

 大宰府への着任は同年暮れ。正妻の大伴郎女(いらつめ)と、54歳でようやく授かった嫡男の家持(やかもち)を伴っての赴任だったと考えられている。のち大伴氏を継ぎ、『万葉集』を編纂(へんさん)する家持は、まだ10歳の少年であった。

 実は、家持の母は特定されていない。大伴郎女でないことは研究者の共通認識で、若い側室の存在が考えられている。

 平城京から大宰府までは、瀬戸内海の船便を利用しても1カ月近くかかった。大伴郎女の出自や生年はわからないが、50歳は超えていたのだろう。長旅の疲れからか床に伏し、翌年初夏には亡くなってしまった。