【スピードスケート】加藤、日本支えた第一人者の誇り | 毎日のニュース

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 上背に恵まれなかった少年時代、家族や知人にこう言われ続けてきた。「スピードスケートでは厳しいな」。実際、海外のトップスプリンターは欧米の長身長足ぞろい。「小柄な選手は大成しない」が短距離界の定説だった。

 加藤少年もそう思い込んでいた節がある。山形中央高時代に男子500メートルを3連覇、1000メートルを2連覇。「傑物」と騒がれながら、語った将来の夢は「体が小さいし、将来は駆け引きがカギになるショートトラックで五輪を目指したい」。小粒な体格への負い目がにじんだ。

 4人兄弟の末っ子。兄たちをまね、1周の距離が短いショートトラックを始めたのは小学1年のときだった。実家は山形市の中心部から約10キロ離れた山間部にある。兄弟や級友との遊び場といえば山。高校時代は、自転車で往復40キロの道のりを走ることもあった。「氷上を跳ぶよう」と関係者がたとえる足腰のバネが利いた滑走は、郷里の山に源流がある。

 「条治」という名の由来がおもしろい。「ジョージという響きなら世界でも通用する」という両親の願いが込められていた。満天下に盛名を響かせることは宿命だったか、2005(平成17)年11月には、長野五輪金メダリストの清水宏保氏の世界記録を更新した。

 以来、胸に秘めてきたのは、第一人者であり続けようとする矜持(きょうじ)。165センチの小粒な体にとって、それはときに強い“向かい風”にもなった。「自分がダメだったら『日本のスケート界がダメ』と思われる。それが一番きつかった」。前回バンクーバー五輪で、同僚の長島の背中を拝む銅メダルに「悔しい、悔しい、悔しい」と3度繰り返し、「銅がこんなに悔しいと思わなかった」と吐き捨てている。