1月2日、福島市のホテルで福島県飯舘中学校の卒業生の同窓会が開かれた。昨年初めごろから準備をしていた念願の同窓会だ。成人式以来となる集まりだ。
飯舘村では、女性の厄年の33歳と男性の厄年の42歳の前の年に厄払いを兼ねた同窓会を開くのが慣習になっていた。誰が開くなどは決まっておらず、時期が来れば誰からともなく開催の準備を始める。女性の厄年のときは男性が、男性の厄年のときは女性が仕切っておもてなしをするというのも村の風習だったという。
東京電力福島第1原発事故後はその風習を続けることすら難しくなった。同窓会で人を集めようにも避難しており、連絡をとるのも集まるのも難しくなった。なにより、飯舘村の神社でお参りした後、飯舘村の宿泊施設で同窓会をするという流れは不可能になった。
今回も友人たちとともに昨年初めごろから準備をしていたが、やはり連絡を取ることに難航した。1度目に卒業アルバムの最後のページに書いてある飯舘村の住所に手紙を出したところ、半分以上が「避難先が不明のため転送ができません」と戻ってきた。
幸いなことにメールやフェイスブックなど、手紙以外で連絡を取れる手段も多かったため、連絡を取れる人が増えるたびに輪が広がっていった。
なんとか協力し合い、127人中ほとんどの人と連絡を取ることができた。
厄年のおはらいもしてもらうことになった。正月の忙しい中、綿津見神社の多田宮司がホテルまで来てくれるということで、女性約20人がおはらいを受けた。
多田宮司はおはらいが終わった後、話を聞かせてくれた。
「飯舘村では、厄年のときに出産するときはいったん人に預けたりすることもありました。人に預けることで厄を落としてもらったりする風習があったんです。また、赤いものを身につけると魔よけにもなるといいます」と村の風習について説明してくれた。
多田宮司は「いまは飯舘村とは離れていますが、みなさんの心の中にある飯舘村を大切にしてください」と締めくくった。
飯舘村では、42歳の男性の厄年のときに厄流しとして、「厄を流す」という意味を込めた船を作り、神社から地元までの道を練り歩く。途中途中に回る家では、酒を振る舞ったり、流すという意味を込めたせっけんなどを贈ったりするという。
子供のころにそうした行事が行われていたことを思い出した。いつか自分もやるものだと思っていたが、こういった形での開催になるとは思わなかった。多田宮司から話を聞き、お札をもらってから、毎年毎年飯舘村で行われてきた行事ができたことのうれしさがこみ上げてきた。飯舘村の中学生たちが村の伝統芸能を語り継いでいこうと練習しているのと同じく自分たちにもできることがあると思わせてくれた。
同窓会には約60人が集まった。記念写真を撮影し、飲んで、食べて、笑って話に花が咲いた。開催前は久々に集まるため、心配をしていた部分はあったがすべて吹き飛んだ。同級生が集まれば、子供時代の話や今の話、震災後の話など自然と話は尽きなかった。
乾杯のあいさつをした林聡さんは「僕らの元は飯舘にある。離れていてもこうやってたまに集まったりして飯舘村の人間だという気持ちを持っていこう」と話した。多田宮司も同じことを話していた。
離れていても飯舘村を忘れることも思いが変わることはなかった。避難という状況は変わっていないが、そうした状況でも60人もの人が村の仲間に会おうと正月早々集まってくれた。
宴は夜遅くまで続いた。「また開こう」「また会おう」。再開を誓う声が後を絶たなかった。(大渡美咲)