朝河貫一博士生誕150年記念特別番組「平和への道標〜朝河貫一のメッセージ〜」

 

福島テレビ FTV 2023年8月12日(土)  

福島県出身の世界的な歴史学者・朝河貫一博士の生涯をたどる。朝河博士は太平洋戦争を回避しようと努力するなど世界平和を追いもとめた。その偉業を後世に伝える。

 

番組内容

1941年、真珠湾攻撃からはじまる太平洋戦争。日米開戦を回避しようと努力したのが世界的な歴史学者・朝河貫一博士。博士が取った大胆な行動とは?博士と故郷をつなぐ貴重な遺品とは?今年、博士の生誕150年を記念しマンガの制作や太鼓の創作などその偉業を後世に伝えようという動きが広がっている。世界平和を追求した博士の足跡をたどると共に、その精神を受け継ごうと活動する人たちの想いを紹介する。

 

以上のことがネットに紹介されています。

 

いよいよ、朝河貫一博士の特別番組の放映が近づいてまいりました。

多くの人に観てもらいたいと思っております。

 

私は朝河貫一博士顕彰協会の副代表理事を務めていまして、目下、マンガ版の朝河伝記を作っていますが、そのことも紹介されます。

 

朝河 貫一(あさかわ かんいち)

 

1873~1948。日欧の封建制の比較を通して、日本史を世界史の中に位置づけた世界的歴史学者。自由主義・民主主義を至上のものとして、平和実現のために論陣を張った。

福島県尋常中学校・東京専門学校(早稲田大学)を首席卒業。ダートマス大学・エール大学大学院歴史学科で学ぶ。エール大学で博士号を取得、同大学歴史学教授。

30歳のとき『日露衝突』を英米両国で出版、全米で日本弁護の講演を行う。35歳、『日本の禍機』(実業之日本社)を出版、覇権主義の日本に対し警鐘を鳴らす。45歳、薩摩郡入来村に滞在、入来院氏の古文書を研究。55歳、『入来文書』をエール大学から出版。

日独伊三国同盟の敗北を予則し、日米開戦の直前、昭和天皇へのアメリカ大統領親書案を書くも、天皇に届いたのは真珠湾攻撃の後であった。

旧二本松藩士朝河正澄の長男として生まれ、伊達郡立子山村で育つ。江戸後期の儒学者安積艮斎とは姻戚である。

 

年表    ※明治6年以外は、1月の時点の満年齢

明治6年(1873) 0歳 12月、二本松町の朝河正澄・ウタ子の長男として誕生。

明治11年(1878) 4歳 父・正澄が校長を務める立子山小学校に入学。

明治19年(1886) 12歳 立子山小学校高等科から川俣小学校高等科に転校。

明治21年(1888) 14歳 福島県尋常中学校(現・安積高校)に入学。

明治25年(1892) 18歳 中学校首席卒業、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学。

明治29年(1896) 22歳 ダートマス大学に入学。『国民新聞』に留学記寄稿。

明治32年(1899) 25歳 タッカーの学費援助で、エール大学大学院歴史学科に入学。

明治35年(1902) 28歳 エール大学で博士号を取得。ダートマス大学講師となる。

明治36年(1903) 29歳 継母・栄子死去。父・正澄、校長を退職。『大化改新の研究』出版。

明治37年(1904) 30歳 『日露衝突』を英米両国で出版、全米で日本弁護の講演を行う。

明治38年(1905) 31歳 ポーツマス日露講和会議オブザーバーとなる。ミリアムと結婚。

明治40年(1907) 33歳 エール大学講師(日本文化史)、図書館アジアコレクション部長。

明治42年(1909) 35歳 『日本之禍機』(実業之日本社)を出版。

明治43年(1910) 36歳 エール大学大学院・日本文化史助教授。

大正8年(1919) 45歳 薩摩郡入来村に滞在、入来院氏の古文書を研究。9月帰米。

昭和4年(1929) 55歳 『入来文書』エール大学から出版。比較法制史家の最高権威者に。

昭和12年(1937) 63歳 エール大学歴史学教授。

昭和16年(1941) 67歳 日独伊の敗北を予言。昭和天皇への大統領親書草案を書く。

昭和23年(1948) 74歳 バーモント州、避暑中、山荘にて死去。エール大学で告別式。