従五位小野梓君碑    元老院議官従四位中村正直撰

 君諱曰梓、小野為氏。二月廿日、嘉永壬子、生于土佐宿毛之里。節吉是考、助野是妣。

 幼時軟弱、就学多怠。迨十三歳翻然慙悔。酒井南嶺塾曰望美、日課詩文、研経讐史。遷日新館、進学人駭。第一書生、高楼憑机。

 固請従軍。戊辰之載、及至越後、賊徒伏罪。岩村通俊愛君無比、携游京洛、開達心耳。一日以扇撃君頬。汝節吉子恨豚犬爾。恩人一言深徹骨髄。

 自期、事業不成不止。誓避女色、曽不被浼。真正英雄、用力在此。鴻鵠有志、燕雀任詆、解去士格、航于欧米。小野義真資給助済。専学法律、深究根柢。

 明治甲戌、君始出仕司法大政、次第遷徙。迨十三年、官行革改、会計検査院始置矣。一等検査、君先僚、夙夜匪懈。剛直自矢、其志不行、力請職解。

 立憲改進党将発企、君在其間、拮据整理。一時之盛、彰聞遠邇。専門学校、教育子弟。君為議員、言中肯綮。

 暇餘著書以燭継晷。國憲汎論、辯如江海、民法之骨、筆有光彩。不朽之業、不負期待。

 甲申九月、喀血病起、丙戌一月、逼于危殆、十有一日、溘然而死。諡願入院東洋居士、僅三十五。

 不永年歯、顧其所為、多可載記。為学通博、漢洋具体、在官剛正、不肯柔靡。為政治家、能審国是、盛年備之。可称英偉。

 君多良友。不謂吾鄙、合辞請銘。我豈可已。

 明治二十年丁亥五月

     従三位勲一等伯爵大隈重信篆額 大内青巒書  宮亀年刻

 

注  碑は宿毛市内の清宝寺に立つ。碑文は、『敬宇文集』巻十五に「小野梓君墓銘」と題して収める。中村正直は昌平坂学問所で佐藤一斎・安積艮斎に学ぶ。同学問所教授となる。訳著、スマイルズ『西国立志編』、ミル『自由論』。

 

  君は諱を梓と曰ひ、小野を氏と為す。二月廿日、嘉永壬子(五年)、土佐宿毛(すくも)の里に生まる。節吉は是れ考(亡父)、助野は是れ妣(亡母)なり。

  幼時軟弱にして、学に就くも多くは怠る。十三歳に迨び、翻然として慙悔す。酒井南嶺の塾を望美と曰ひ、日ゝ詩文を課し、経を(けん)し史を(しゅう)す。日新館に遷るや、進学、人駭く。第一の書生、高楼、机に憑る。

  固く従軍せんことを請ふ。戊辰の載(明治元年)、越後に至るに及び、賊徒、罪に伏す。岩村通俊、君を愛すること比する無く、携へて京洛に游び、心耳を開達す。一日、扇を以て、君の頰頦を撃つ。「汝、節吉の子、恨むらくは豚犬たるのみ」と。恩人の一言、深く骨髄に徹る。

  自ら期す「事業、成らざれば止まず」と。誓つて女色を避け、曽て(けが)されず。 真正の英雄、力を用ゐるは此に在り。鴻鵠、志有り、燕雀、(そし)るに任せ、士格を解き去り、欧米に航す。小野義真、資給助済す。専ら法律を学び、深く根柢を究む。

  明治丙子(原文「甲戌」、実は「丙子」。九年)、君始めて出仕し、司法大政、次第に遷徙(せんし)す。十三年に迨び、官は革改を行ひ、会計検査院始めて置かる。一等検査、君、僚寀(りょうさい)(同僚の官吏)に先んじ、夙夜(朝早くから夜おそくまで)懈らず。剛直自ら(ちか)ひ、其の志行はざれば、力めて職の解かれんことを請ふ。

  立憲改進党将に発企せんとするや、君、其の間に在りて、拮据(一所懸命に働く)整理す。一時の盛り、彰らかに遠邇(えんじ)に聞こゆ。専門学校(現、早稲田大学)にて子弟を教育す。君、議員と為るや、言、肯綮(こうけい)に中る(要点を巧みにさぐりあてる)。

  暇余、書を著し、燭を以て(き )を継ぐ(夜なべする)。「国憲汎論」、弁ずること江海の如く、「民法之骨」、筆に光彩有り。不朽の業、期待に(そむ)かず。

  甲申(明治十七年)九月、咯血病起こり、丙戌(明治十九年)一月、危殆(きたい)(非常に危ない状態)に逼り、十有一日、溘然として死す。謚は願入院東洋居士、僅に三十五なり。

  年歯を永くせざるも、顧ふに、其の為す所、載記すべきこと多し。学を為せば通博、漢洋(とも)に体し、官に在りては剛正、柔靡を(がえ)んぜず。政治家と為りては、能く国是を審らかにし、盛年、之を備ふ。英偉と称すべし。

  君、良友多し。吾を鄙と謂はず、合辞して銘を請ふ。我豈に已むべけんや。