今年は、世界的に有名な歴史学者・朝河貫一博士生誕150年。

6月17日には、朝河貫一顕彰協会主催で、郡山市の図書館のホールでフォーラムを開きます。

人数が定員に達しましたので、新規受付はできません。

 

博士は、安積国造神社第61代宮司安藤国重の福島県尋常中学校(今の安積高校)時代の友人で、姻戚でもあります。

報恩の辞は、貫一の父朝河正澄が小学校長を退職するときに、村人から贈られたものです。

漢文なので、読み下しました。

 

正澄は、貫一に大きな影響を与えた人ですので、この文は貴重です。

これを書いた巻物をエール大学が所蔵し、立子山にレプリカがあります。

 

報恩の辞

 

報恩之辞(報恩の辞)

 

読み下し文

 

 明治三十六年九月、我が立子山村小学校長朝河先生は、年の六十に近きを以て一朝職を辞して去る。先生は名は正澄、(もと)二本松藩士なり。資質坦厚、栄利もて其の心を動かすに足らず、毀誉もて其の情を乱す能はず、終始一誠自ら欺かざるを以て(むね)と為す。

明治七年、学校を天正寺に創立し、先生を()きて師と為す。爾来三十年、教へを受くる者一千余人なり。

 先生職に当たるや、訓蒙を(おこた)らず、養英機に随ひ、奨導事に因り、啓沃従容(しょうよう)として迫らず、相ひ感ずるに誠を以てすれば、教育(ここ)より振起す。

 年歳の久しき、薫陶の厚き、孝愛友悌、自ら一村に被る。村中の弟子相ひ語りて先生と称すれば、問はずして朝河先生()るを知る。其の父兄も亦た先生と称して名づけず。蓋し人に入るの徳深くして、人を化するの功に至る者にあらずんば、豈に能く此くの如からんや。 

(  つらつら今の教員なる者を視るに、口づから道を講ずと雖も、而れども心は則ち唯だ利して是れ(はか)るのみ。俸を増して之を(むか)ふる者有れば、則ち就く。故に(あした)に某校に在りて、夕べに某校に遷る。其の学校を視ること伝舎の如く、弟子を視るに市道(しどう)を以てす。

 是れに由りて師弟親しまず、教導に効無し。他日、弟子の旧師を視ること同席比肩の友に異ならず。甚しきは則ち、道を行くの人、曽て面を謀らざる者の若し。徳義、地を(はら)ひ、偸薄(とうはく)(ふう)を成す。師の授くる所、弟子の受くる所、果たして何をか()はんや。

 三十年間一校に従事するとも、師弟の親愛、我が朝河先生其の人の若き(こと)(すく)なし。今者(いま)先生、挂冠(けいかん)して帰郷す。(せい)()留めんと欲するも能くせざるは、猶ほ寒きに(かわごろも)を去り、赤子の怙恃(こじ)を離るるがごとく、茫乎として為す所を知らざるなり。

 乃ち相ひ(とも)に議りて将に遺愛の碑を立てて其の功徳を書し、以て我が思ひを慰め、以て後人をして是れ

のっとらしめんとす。

 先生之を聞くも峻拒して許さず。是に於いて更議し、金殻の測時器一儀を奉呈し、以て微衷を表す。報ゆるに(あら)ざるなり。(とこし)へに(わす)れざるを(ちか)ひ、遂に書して以て贈ると為し、生等稽首再拝す。

 維()れ明治三十六年九月下浣(げかん)

 

○事に因る ことがらの状況に応じる。 ○啓沃 人を導き教える。 ○従容として迫らず 落ち着きはらって慌てない。 ○伝舎 仮の宿り。 ○市道 商売の道。 ○面を謀る おたがいに知る。 ○地を掃ふ すっかりなくなる。 ○偸薄 人情がうすい。 ○挂冠 官職を辞める。 ○怙恃 父母。 ○峻拒 きっぱり断る。 ○更議 さらに評議する。 ○測時器 時計。 ○下浣 下旬。

 

現代語訳

 

 明治三十六年九月、わが立子山村小学校長朝河先生は、年が六十に近いとの理由で、ある朝辞職して去られました。先生は、名は正澄、もとは二本松藩士であります。穏厚なお人柄で、栄利に心が動かされず、他人の毀誉に感情が乱されず、誠ひとすじで良心にそむかないことを本旨とされました。

 明治七年、学校を天正寺に創立し、先生を師としてお招きしました。それから三十年、教えを受けた者は千余人にのぼります。

 先生が職務にあたるときは、飲みこみが遅い子どもにも怠らず教えさとし、適した頃合いを見て才をはぐくみ、ことの状況に応じて指導し、落ち着きはらって慌てずに導き、誠の心で感化したので、教育はここから振起しました。

 久しい年月、厚い薫陶をうけ、孝愛友悌の徳がおのずと一村に及びました。村中の弟子が語って「先生」と称すれば、問わずして朝河先生のこととわかります。その父兄も「先生」と称して名を申しません。思うに、人の本心にはたらきかける徳が深くして、人を教化する結果にいたる人でなければ、どうしてこのようになりましょうか。

 よくよく今の教員と言われる人を見てみれば、口では道を講じていても、心の中はただ利益を求めるばかりです。俸給を増やして彼を迎える人がいれば、そちらへ就職します。だから、朝には某校に在職して、夕べには某校に遷ります。彼らは学校を仮の宿りのように見、弟子を見るには商いを持ちこみます。

 これでは師弟は親しまず、教導にも効果がありません。後に弟子が旧師を見ても、机を並べた学友を見るのと異なりません。はなはだしい場合は、道行く人の波に、知らない人を見かけるのと同じです。徳義はすっかりすたれ、人情の薄い気風となりました。師が授けるもの、弟子が受けるものとは、いったい何だと言うのでしょうか。

 三十年間一校に従事したとしても、師弟の親愛が、わが朝河先生、このお人のようなことは少ないのです。今、先生は職を辞して帰郷されます。我らがひきとめようとしても叶わないのは、ちょうど寒中に皮衣をとられ、赤子が父母と離されるのと同じで、茫然として、どうしてよいのかわかりません。

 そこで話し合い、遺愛の碑を立てて先生の功徳を記し、そうしてわが思いを慰め、後の人々の手本にしようとしました。

 先生はこれを聞かれて、きっぱりと断られました。そこでさらに話し合い、金時計一個を進呈して微意を表わすことにしました。報いたことにはなりません。先生の功徳を永遠に忘れないことをお誓いし、ここに報恩の辞を書いてお贈りし、我々稽首再拝いたします。

 明治三十六年九月下旬