『艮斎文略続』の序文を解読しました。 

 

原文・訓読・現代語訳・語釈の順に並べました。ご一読ください。
 

   艮斎文略続序

 

 艮斎翁文略続刻成携来、以示且請為之序。蓋予之交於翁也久矣。初翁之出東奥来、寓一斎先生之塾、遂入先考快烈之門焉。
 時予齢僅十一、毎就一斎先生学、旁聴翁之論説亦不少。翁於亡兄檉宇則切磋之朋友、而於予則指摘之先輩也。曩鋟文略前編、亡兄既題其首。今也続刻之引、予烏乎可辞。
 猶記。翁之在先考之門也、晨夕孜々勉励、或与同窓儕輩剪燭論経、往往到鶏鳴而不已。先考曽云、思順志強気鋭、後必有成。
 既而下帷駿台、教育生徒。読書之楼遠眺芙岳、扁曰見山。後又遷居麹坊、従游者益衆矣。
 迨天保之末、官振興学政如寛政之旧。於是諸藩風靡、絃誦之声、殆遍天下。翁郷貫為奥之二本松。藩侯擢為教授。既而官召賜謁、無幾特旨抜補于昌平学教官。寔異数也。
 因追思往事、忽々四十餘年、磨礪之仝志十無二三、亡兄之墓木将拱而予亦老矣。惟翁年踰耳順、学殖文章卓乎、為後進所攀援。挟書而踵者、陸続盈門、列侯以下相延聴講経、幾無虚日。可謂老而益壮者矣。
 若夫翁之博聞縦攬、著撰富贍、而詞藻文辞亦不愧乎古人者、世之所共知。故予不復贅。蓋斯編係藩儒時所作、而其栄擢以後之集、則待異時続刻云。嘉永六年龍集昭陽赤奮若清和月、藕潢林韑題。(印「林韑」「弸中」)惇斎藤田良書。(印「金良」「惇斎」)
                                            
 艮斎翁、文略続刻成りて携へ来り、以て示し且つ之が序を為らんことを請ふ。蓋し予(われ)の翁に交はるや久し。初め翁の東奥を出でて来るや、一斎先生の塾に寓し、遂に先考快烈の門に入る。
 時に予齢僅か十一、一斎先生に就きて学ぶ毎に、翁の論説を旁聴することも亦た少なからず。翁は、亡兄檉宇に於いては則ち切磋の朋友、而して予に於いては則ち指摘の先輩なり。曩(さき)に文略前編を鋟(きざ)み、亡兄既に其の首に題す。今也(ま)た続刻の引(いん)、予烏(いずく)んぞ辞すべけんや。
 猶ほ記す。翁の先考の門に在るや、晨夕孜々として勉励し、或いは同窓儕輩と燭を剪り経を論じ、往往にして鶏鳴に到るも已まず。先考曽て云ふ、「思順、志強く気鋭し、後に必ず成る有らん」と。
 既にして帷を駿台に下し、生徒を教育す。読書の楼にて芙岳を遠眺し、扁して見山(けんざん)と曰ふ。後に又た居を麹坊に遷し、従游する者益ゝ衆(おお)し。
 天保の末に迨(およ)び、官は学政を振興すること寛政の旧の如し。是に於いて諸藩風靡し、絃誦の声殆ど天下に遍(あまね)し。翁の郷貫は奥(おう)の二本松為(た)り。藩侯擢んでて教授と為す。既にして官召して謁を賜ひ、幾(いくば)くも無くして特旨もて抜きて昌平学教官に補す。寔(まこと)に異数なり。
 因つて往事を追思すれば、忽々四十餘年、磨礪の仝志、十に二三無く、亡兄の墓木将に拱(きょう)ならんとして、予も亦た老ゆ。惟だ翁のみ年耳順を踰え、学殖文章卓乎として後進の攀援する所と為る。書を挟みて踵(いた)る者、陸続として門に盈ち、列侯以下相い延(ひ)きて講経を聴き、幾(ほとん)ど虚日無し。老いて益ゝ壮んなる者と謂ふべし。
 若し夫れ翁の博聞の縦攬なる、著撰の富贍なる、而して詞藻文辞も亦た古人に愧ぢざる者は、世の共に知る所なり。故に予復た贅(ぜい)せず。蓋し斯の編は藩儒の時に作る所に係る。而して其の栄擢以後の集は、則ち異時を待ちて続刻すと云ふ。嘉永六年龍集昭陽赤奮若清和月、藕潢林韑題す。惇斎藤田良書す。

 艮斎翁は、文略続が完成して携え来て私に示し、かつその序文を書くようにと依頼した。そもそも私は翁と交わって久しい。はじめ翁は東奥を出て江戸に来て、一斎先生の塾に寓し、ついには亡父述斎の門に入った。
 このとき私はわずか十一歳、一斎先生の塾で学ぶときに、翁の論説を傍聴したことも少なくない。翁は、亡兄檉宇から見れば切磋琢磨した朋友で、私から見れば指摘をいただく先輩である。かつて文略の前編を出版し、亡兄はその冒頭に文を書いた。今また続編の序文を、私は辞退できようか。
 なお記す。翁が亡父述斎の門にいたときは、早朝から夕べまでたゆまず勉励し、あるいは同門の輩と夜のふけるまで経学を論じ、しばしば朝になっても終わらなかった。亡父述斎はかつて言った。
「思順(艮斎)は志が強く、気が鋭い。後にかならず大成するだろう」
 まもなく駿河台で私塾を開き、生徒を教育した。学塾の楼にて遠く富士山を眺め、扁額に「見山」と書いた。後に居を麹町に遷し、従学する者はますます多くなった。
 天保の末になると、幕府は寛政の頃と同じように文教を振興した。そのため諸藩もなびき従い、学芸は天下にほぼ行きわたった。翁の郷里は奥州の二本松である。藩侯は(敬学館)教授に抜擢した。まもなく幕府が召して拝謁を賜い、ほどなくして特別のはからいで抜擢して昌平黌教官に任命した。まことに例のないことである。
 往事を追想すれば、またたくまに四十余年、学問に励んだ同志は十人のうち二三人は亡く、亡兄の墓に植えた木は、両手で囲むほどの太さになろうとし、私も年老いた。ただ翁ばかりが、耳順の齢を過ぎても学問や文章が卓越し、後進に頼られている。本を小脇にはさんで来る者が、次々と門に満ち、列侯以下が招いて講義を聴き、ほとんどひまな日がない。老いてますます壮んな人と言えよう。
 さて翁の知識が広大で、著作文章の表現が豊かで、詩文が古人に恥じないことは、世に知られている。だから私は余計なことは言わない。およそこの編は、藩儒の時に作ったものである。翁が昌平黌教官に抜擢されてからの文集は、他日を待って続編を出版するという。嘉永六年癸丑歳四月、藕潢林韑が題した。惇斎藤田良が書した。

○一斎 佐藤一斎。安永元年~安政六年 中井竹山、林信敬に学ぶ。表向きは朱子学、実際には陽明学を奉じた。昌平黌教授。『言志四録』を著す。

 

○快烈 林述斎。明和五年~天保十二年 岩村藩主松平乗蘊の三男。名は衡(たいら)、字は叔紞・公鑑・徳詮、別号は蕉軒。大塩鼇渚・服部仲山・渋井太室・細井平洲に学ぶ。朱子学・考証学。第八代大学頭。林家の聖堂学舎を幕府直轄の昌平坂学問所へと改めた。朝鮮通信使の応接の儀を定めた。林家中興の祖。著『佚存叢書』『寛政重修諸家譜』『武家名目抄』『徳川実紀』。

 

○檉宇 林檉宇。寛政五年~弘化三年 述斎の三男。名は皝(ひかる)、字は用韜、別号培(ほう)斎(さい)。佐藤一斎・松崎慊堂に学ぶ。朱子学。第九代大学頭。著『聴雨軒詩文集』『書経重考』。 

 

○龍集 歳次。 ○昭陽 癸。 ○赤奮若 丑。 ○清和月 四月。 

 

○惇斎藤田良 書家。名は金良、字は温卿。『蝦夷闔境輿地全図』を編す。 

 

○藕潢 林復斎。寛政十二~安政六 述斎の四男。名は韑(あきら)、字は弸中、別号梧南。第十一代大学頭。対外関係史料集『通航一覧』を編纂。日米和親条約の全権。米国艦隊との交渉記録『墨夷応接録』を著す。