修身、斉家、治国、平天下が儒学の基本です。

修身からはじまって、天下の平和をめざします。

 

修身などというと、戦前の硬直化した道徳科目のようで、今の人にはあまりイメージがよくないようです。

修身の本来の意味は「身を修む」であり、「自分の行いを正しくする」ことです。

 

江戸後期は、昌平坂学問所や藩校、佐藤一斎・安積艮斎など有名儒学者の私塾、咸宜園や弘道館、また村の寺子屋も、儒学にもとづいた教育を行っていました。

儒学による人間育成にはじまって、儒学の倫理観を持った人たちが要職につき、天下の秩序が保たれていました。

彼らは経世済民、「世の中をおさめ、人民を救う」ことを実践しました。

 

 

これは大須賀筠軒の画(一部)で、農耕図(秋)です。企画展には春の図が展示されています。

農耕図のバックボーンには、「治国平天下」や「経世済民」の思想があります。

 

明治時代になっても、儒学は厳然として存在し、わが国の教育や文化を支えていました。

新たに西洋思想が入ってきましたが、在来の東洋思想も深く根づいていました。

 

明治日本の教育を調べれば、その草創期は中央も地方も儒学者が担っていたことがわかります。

いわきにおいても、儒学者の果たした役割は大きいのです。

いわきを彩る儒学者展の五儒(神林復所 室桜関 神林惺斎 大須賀筠軒 吉田景雲)は、いわきの近代教育の祖と位置づけられます。

 

近世教育が廃されて近代教育が新たに作られたわけではありません。

近世と近代の教育は、連続したものととらえるべきです。

 

五儒の師は、林述斎 古賀侗庵 安積艮斎 塩谷宕陰です。

幕府儒官で、多様な価値観を認め、海外事情にも通じていました。

今の文部・外務大臣(国防を含む)の役割を果たしました。

幕儒の教えが、いわきの教育の源となったのです。

 

ところが幕末の民衆は、後期水戸学の会沢正志斎・藤田東湖等の思想にもとづいた尊皇攘夷を熱狂的に支持しました。

大老井伊直弼が暗殺され、老中安藤信正は暗殺未遂から失脚、その後もテロが横行しました。

しかしながら、尊皇攘夷を唱えていた人たちは、権力を握ると、すぐさま開国論者になりました。

水戸学や尊皇攘夷運動の功罪は、議論してゆく必要があります。

 

王道覇道で言えば、いわきの儒者が支えた開明派老中安藤信正の治世は王道で、尊皇攘夷は覇道であったのではないでしょうか。