吉田景雲
室桜関、塩谷宕陰、林学斎、大槻磐渓に学びました。
湯長谷藩儒、同藩致道館教授を務め、廃藩後は各種の学校の教員となりました。
明治21年、私塾明徳舘を開きました。
門人千余人。
名は敦和(あつかず)。
『礼記』「楽記篇」に、「楽(がく)は和を敦(あつ)くし、神(しん)に率ひて天に従ふ」とあるのが典拠です。
「音楽は和合の力に富み、神気(万物を成長させるという不思議な力)と天の徳を備える」の意です。
儒学の学習には、素読・講釈・会読の3種類があります。
中でも、会読という学習法は注目すべきです。
10人程度で同じ書物を順番に講義し、討論を行います。
会読は、相互コミュニケーション性、対等性、結社性があり、蘭学や国学にも広まりました。
平等な立場での自由討論の場だったのです。
経書のある部分を題材とし、塾生同士が討論します。
先生は会頭を務めて、それぞれの説に批判を加え、当否を言います。
会読は、江戸時代昌平黌・藩校・私塾で行われ、明治の私塾にも継承されました。
吉田景雲の明徳舘でも、行われていたことでしょう。
文部省の小学教則にも、「会読」は継承されました。
しかし明治政府には不都合だったため、会読は排除されました。
学習の場に議論が無くなり、先生が生徒へ一方通行で学問を教える形になりました。
前田勉「明治前期の学制と会読」に、
「国家主義的な教育を目指そうとする伊藤博文らの明治政府にとってみれば、会読・輪講は教育現場から排除すべきものだった」
とあります。
公教育が硬直化してゆく中にあって、景雲の塾の存在は貴重であったと思います。
湯本の金刀比羅神社にある「景雲吉田先生之碑」に、
「嗚呼、方今世道(せいどう)日(ひび)に降り、仁義忠孝の教へ殆んど将に地に墜ちんとす。而れども磐城の文学の尚ほ彬彬(ひんぴん)たる者は、蓋し先生の教化の賜なり」
いわきで学問が盛んであったのは、景雲先生の指導のおかげです。
修身斉家治国平天下が、儒学の基本です。
儒学は、心を育てることからはじまります。
細井平洲は、
「才不才を相応に教育し、結局善人にさえなれば用に立つ」
と言っています。
平洲に学んだのが林述斎、述斎に学んだのが安積艮斎です。
『艮斎間話』に、平洲のこの言葉及び教育論を引用しています。
艮斎生家安藤家の第61代宮司安藤國重の次男安藤重春は、日展画家にして、安積幼稚園の園長でもありました。
「身体(からだ)は育つもの、心は育てるもの」
という園訓を残しています。
儒学は修身からはじまりますが、儒学の目指すものは経世済民です。
世の中をおさめ、人民を救うのが目的なのです。
いわきの近代教育は、吉田景雲からはじまります。
郡山近代教育の発祥地は金透小です。
金透草創の4人の先生は、安積国造神社宮司安藤脩重(もろしげ)、如宝寺住職鈴木信教(しんきょう)と、2人の儒学者です。
近代日本の教育の源をたどると、中央も地方も儒学者に行き当たります。
「金透」の名は木戸孝允が付けましたが、その典拠は『朱子語類』です。
「陽気発する処、金石亦た透る。精神一到、何事か成らざらん」(朱子)
近世教育と近代教育は連続しています。