大須賀筠軒
筠軒の名の履は、長らく「はく」という読みが定着していましたが、それでは「靴をはく」程度の意味になってしまいます。
日常生活では通称や号を用いますので、子孫の方であっても、名の読みが正しく伝わっていないこともあるのです。
これは「ふみ」と読みます。
履の典拠は、
『周易』「繫辭上」の、
「子曰く、祐とは助なり。天の助くる所の者は順なり。人の助くる所の者は信なり。信を履(ふ)み(信実の徳を履み行い)順を思ひ…」です。
ちなみに艮斎の名・字・通称も、「履」と同じ箇所が典拠です。
名は重信、字は思順、通称祐助です。
筠軒は久ノ浜の舟門(ふなど)に漢学塾を開き、今の東北大学の教授をつとめ、明治を代表する漢詩人でもあり、また南宗画が秀逸です。著作は『磐城史料』他多数。
東北大学に就職したときの自筆の履歴書によれば、
「経学を安積艮斎に受け、文章を塩谷宕陰に学ぶ」とあります。
つまり昌平坂学問所で、主要科目を艮斎に学び、添削指導を宕陰に受けたのです。
佐藤一斎や藤森弘庵にも学んだと言う人もいますが、根拠はありません。
明治十五年(一八八二)一月三島通庸が福島県令を兼任します。
筠軒は、三島の専制横暴と合わず、五月十五日宇多・行方の郡長を辞しました。
同年十一月、筠軒は岡鹿門と、竣工したばかりの猪苗代湖疏水(現、安積疏水)に遊び景勝を愛でました。
筠軒は、艮斎譲りの煙霞の癖を持っていました。
そのときに作った筠軒詩画・岡鹿門詩『苗湖分溝八図横巻』(安積疏水八景の詩画・安積国造神社蔵)は、10日の講演会で特別展示しました。
明治27年福島県尋常中学校(現、安積高校)教授となりました。
明治29年大学予科漢文科教授となり、第二高等学校(現、東北大学)教授に任ぜられました。
筠軒画幅(菊・安藤智重所蔵)に、次の詩を書き付けています。
解印帰来鬢已斑 解印帰来すれば鬢(びん)已に斑(まだら)なり
故園松菊可怡顔 故園の松菊 顔を怡(よろこ)ばすべし
祗縁三逕荒涼久 祗(た)だ三逕の荒涼たること久しきに縁(よ)り
特寫秋花仔細看 特(ひと)り秋花を写して仔細に看る
○解印 官を辞す。
○第二句 陶淵明「帰去来の辞」の「三径荒に就けども 松菊猶ほ存す」「壺觴(こしょう)を引きて以て自ら酌み 庭柯(ていか)を眄(み)て以て顔を怡ばしむ」を踏まえる。「三径……」の句は、乱世にも節操の高い志士が存在することをいう。
○三逕 庭にある三つの小道。隠者のすまいの庭にたとえる。
官を辞して帰ってみれば、もう白髪まじりの身だ。
しかしふるさとの松菊を見ると、おのずと顔がほころぶ。
ただ庭が久しく荒れていたので、
とくに秋の花(菊)を細かに見て描いた。
この詩は、陶淵明の帰去来の辞に思いを馳せつつ、県令三島通庸に反発して下野したわが身を詠じたものです。
波立薬師には、筠軒詩碑「魚社風月を訂し 鷗鄰釣竿を托す……」があります。
10月のツワブキが咲く季節に行ってみてください。