室桜関
室桜関は、儒学者室鳩巣(徳川吉宗が信任)の本家筋の人です。
桜関は、磐城平藩主安藤信正・信民・信勇・信守の四代に仕え、藩の大綱に参与し、文・政を振興し、兵制を改革し、詩文にも長じました。
嘉永2年11月、神林復所の次男神林惺斎が安積艮斎に入門したときは、その請人(うけにん)を務めました。艮斎は嘉永3年幕府の儒官となります。
嘉永4年、恩師神林復所の後継者として、磐城平藩の儒者の正官に昇りました。
安藤信正公は、神林復所・室桜関師弟の献策を用いて、老中になりました。
復所と桜関は、開明派老中安藤公のブレインを務めた儒学者です。
ですから、地方のみならず、中央の儒学者とも言いうるのです。
桜関は、平藩校施政堂を中興して、佑賢堂と改称しました。
『桜関詩鈔』巻上・宮本小一(こいち)序に、
「嘗て業を侗庵古賀氏に受け、壮歳服仕す。幕府之末造、藩侯、国事に艱(かた)し。翁は文学(学問)を以て其の憂患を分担す」
「戊辰の変、奥羽戦伐の事起こる。磐城平は実に其の衝に当たる。翁は出でて軍事に幹す、故に罪の尤も重きを得たり」
とあります。
しかしながら、桜関の著書・兵学書・詩歌・書翰・建白文・意見書等はほぼ焼失してしまいました。戊辰戦争で桜関の屋敷が被災したのです。まことに残念です。
『桜関詩鈔』巻下に、「復所神林先生を挽(ばん)す」と題した七言律詩があります。その二句に、
今来道学亡梁棟 今来(こんらい)道学 梁棟を亡(うしな)ふ
誰復文章伝洛閩 誰か復た文章 洛閩を伝へん
とあります。
洛閩とは地名の洛陽と閩であり、朱子学のことを言います。
「今、道学において棟梁たる人物を失った。誰が朱子学を伝えられようか」という意味です。
磐城平藩の筆頭儒学者の死去を悲しみ、朱子学の蘊奥を伝える人がいなくなったと嘆いているのです。
復所への強い尊敬の念が伝わってきます。
藩校址近くの飯野八幡宮には、「桜関室先生碑」(顕彰碑)があります。
勿来の関には、桜関の詩碑があります。
桜関という号は、まさにこの勿来の関に由来します。
吹く風を勿来の関と思へども道もせに散る山桜かな 源義家
言わずと知れた、千載和歌集に載る名歌です。