神林復所

 

神林復所は1814年20歳にして佐藤一斎の塾に入門しました。 

安積艮斎は1807年に一斎の門に入り、1810年に林述斎の門に入り、1814年24歳にして駿河台に私塾を開設しました。

 

艮斎と復所が一斎に学んだ時期はやや時間差があり、復所は艮斎の後輩ということになります。

 

復所の墓石の裏に、興味深いことが書かれています。

 

「然れども其(一斎・陽明学)の学を奉じず、篤く程朱(朱子学)を信じ、故に祭酒林公(林述斎)の門籍に属す」

 

この「神林復所先生墓陰記」は、復所の三男の大須賀筠軒が書いていますから、信用できます。

碑文によれば、復所は一斎に学んだけれども、一斎の学問を継承せず、林述斎の塾に籍を置いたというのです。これには驚きました。

 

一斎は陽朱陰王と言われます。朱子学の看板を掲げつつ、実際は陽明学を教えていたのです。

陽明学は平等思想も有しますから、幕藩体制とは相反します。体制側から見れば危険思想です。

復所は平藩士として江戸に遊学したのですから、陽明学を受容しなかったというのは、常識的な判断であったとも言えます。

 

艮斎も、復所と似たところがあります。

艮斎は17歳で一斎に入門しましたが、やはり20歳のときに述斎の塾に入りました。

『艮斎詩略』中の、述斎先生の人徳を詠じた詩などを見ますと、述斎こそ艮斎の師なのだろうという感じもします。

 

中国古典学者の佐藤浩一氏も、「艮斎の漢文の句読(読み方)は、一斎の句読を受け継いでいない、一斎のアクの強い学風は合わなかったのではないか」と言われました。

 

おそらく、艮斎と復斎は、学問的な立ち位置が近かったのではないかと思います。朱子学を主とするも、陽明学などの善い考え方も採用しましょうというものです。

 

復所は、磐城平藩主安藤公の首席儒者です。儒学・国文・易・音韻・歴史・文集など著作は三百部もあります。

 

復所『朱子学鵠約説』の序文は、艮斎が依頼を受けて書いています。

 

復所『救時秘策』(嘉永七年序)の内容は、次のようなものです。

 

奢侈を禁じ、農家の利を興し、節倹の政治を行うべし。

昇平の久しき、心懈怠、奢侈風をなし国勢張らず、士気ふるわず、国已に空虚の時外寇を受く。わが国の尚武の俗を海外に示すべし。

外国が他国をうかがうのは市場を求めるから。容易に開港してはならない。

全軍の運命は一人の将帥にかかわる。専断とし、幕府は干渉せず。(機動力)

わが国においては兵権の掌握は水戸公をもってす。……佐藤一斎と同意見

幕府領地を江戸周辺に集中、諸侯は本領地に合併、列侯その管内を守り、沿海ことごとく鎮兵となす。(防衛機能を高めるべく、封建体制を再編強化する)

 

これは、艮斎『洋外紀略』(嘉永元年序)の影響を受けているようです。

 

儒学者展では、復所の詩軸2本、また著作等を展示しています。

 

ご見学の折は、図録の現代語訳を参照していただくと、復所の心が伝わってまいります。

 

復所の三男が大須賀筠軒です。

7月10日午後5時30分からの講演会「いわきの儒学者と安積艮斎」で、大須賀筠軒詩画・岡鹿門詩『苗湖分溝八図横巻』(安積国造神社蔵)を特別展示いたします。