『艮斎間話続』上・二十四丁に、「菊好きの菊を作る如くするは宜しからず」の話が載る。

                                          
版本は漢文調の和文だが、私が現代語に訳した。以下の通り。

 本多正信は言う、
「学問をして心の惑いを解こうと思えば、師匠は無欲で正しい道をゆく人をえらんで、四書五経、資治通鑑、史記、漢書の中の重要な所をまず聴くべきである。師匠の教えにしたがって学問をして、心が悪くなった人が多く見える。これは師匠が悪いからである。師匠と大臣とをえらぶことは、天下の大事である」と。まことに確言である。
 細井平洲の言(『嚶鳴館遺草』「つらつらふみ」君の巻)に、
「大抵、師は素志素行が正しく、かたよった見識や気性がなく、学問も諸書をひろく見わたし、古今の治乱興亡や人情の変化に通じ、ただ人を親切に教えて、人が成長自立するようにとまごころで導き、鼻たらしの小童までも、善行善心の人に成長自立するようにと、まごころで教育する人を師と定めるべきである。善言善行を見ならい、追々に成長自立すれば、その中には大賢英才も生じるのである。
 平生の実践の正しい中にも、生まれつき窮屈でかたよった気性の人は、人の師にはしないものだ。すべて人を教育する方法は、菊好きが菊を作るようにするのはよろしくない。百姓が野菜や大根を作るようにするべきである。
 菊好きが菊を作るというのは、花の形が見事にそろい、菊ばかりを咲かせたく思うので、枝をもぎり取り、あまたのつぼみを摘み棄て、伸びる勢いを縮めて、自分の好みの通りに咲かない花は、花壇中に一本も立たせないものである。百姓が野菜や大根を作るというのは、一本一株も大切にし、一つの畑の中には上出来もありへぼもあり、大小そろわず、それぞれに育てて、よきもわろきも食用に立てるのである。
 人の才能は一様ではないもので、一概に自分の持つ方の通りにだけ導く、かたよった気性で教育すれば、教えを受ける人も堪えかねるのである。才不才を相応に教育し、結局善人にさえなれば、用に立つものである。識度が浅く狭い人は、師にしてはならない」
 本多正信の言、細井平洲の語、ともに師たる者は心得るべき確言である。

以上である。

 

艮斎は、学習者の主体性を重んじた教育を実践した。

その根底には、細井平洲、林述斎、安積艮斎と続く学統がある。

 

幕末に林立した尊王攘夷論者養成塾とは一線を画する。