二本松市にある大隣(だいりん)寺に詣でて、小此木間雅(おこのぎかんが)の碑を見た。

 

 

間雅は二本松藩医小此木天然(てんねん)(シーボルトの門人)の子息で、天然痘ワクチン接種の先駆者である。

碑の漢文は堀江半峯(安積艮斎の門人)が作成した。

 

碑によれば、

 

間雅は天保年間に江戸に遊学し、蘭方医坪井信道に学んだ。7年間研鑽して医術を究め、嘉永元年(1848)に帰藩した。この頃種痘術は、まだあまり行われなかった。間雅は早くから種痘の書物を入手し、その法を熟知して講義した。人は種痘術を疑った。そこで間雅は再び江戸に行き、天然痘のワクチンを入手して帰った。4、5人に種痘を(ため)して成功し、さらに種痘術を藩内に及ぼした。その後、天然痘の死者が無くなった

 

という。

 

日本の種痘のはじまりは嘉永2年6月である。

バタヴィアからのワクチンを用いて種痘し、成功した。

 

ワクチンは、蘭方医のネットワークで6ヶ月の間に京都・大阪・江戸へと伝播した。

 

碑の内容から察するに、間雅が二本松藩内で種痘術を施したのは、嘉永2、3年であろう。

しかし定説では、間雅の種痘は嘉永6年とされている。

嘉永2、3年の種痘であれば、間雅は種痘の先駆者と称揚できる。

しかし、嘉永6年では先駆者の名を冠することはできない。たった3、4年の違いではすまない。

 

定説の嘉永6年は、何にもとづいているのか。

その答えは、『双松碑文集』にあった。

 

紺野庫治『双松碑文集』(昭和12年)は、間雅碑の「嘉永元年に帰藩した」の「元」を「六」と誤読した。

これがドミノ倒しのように広まって、間雅の種痘は嘉永6年になり、『二本松市史』(平成元年)にも載った。

つまり嘉永6年種痘の根拠は無い。

 

歴史というものは、古文書や石碑の現物を見ることが大切だと思う。

 

紺野は『続双松碑文集』(昭和15年)も著している。

正続の碑文集に213基の墓誌が載る。

その漢文にはすべて訓点が付いていて、ほぼ正確である。正編は送り仮名も振ってある。

まさに郷土史の宝の山である。

 

平成14年、某団体が、この碑文集の復刻版の『双松碑文集』を発行した。

原著の213基から178基を復刻し、新たに6基加えて184基が載る。

復刻版を謳いながら、掲載する碑の数を減らしてしまった。

 

間雅碑の文字の判読を比べてみた。

 

原著『双松碑文集』は翻字のミスが6ヶ所あった。

 

復刻版はミスが6ヶ所も増えて12ヶ所あった。

石碑の「以」の異体字「㠯」を、復刻版では「呂」と誤読してしまっている。

 

原著は手書きのガリ版刷りの文字だが、復刻版は活字に改めた。そのときに間違いも生じる。そもそも、手間をかけて活字にすることはなかったのだ。

 

平成14年の復刻版は、私は復刻版とは呼びたくない。

紺野庫治の膨大な研究を台無しにしてしまったからだ。

 

原著の碑文集は非常に貴重な史料なのだから、写真製版して復刻すべきであった。