昨日の4日から、アトリエで作業始めています。
11月末に、奈良までたくさんの画材屋雑貨をいただきに行ったお友達から、
「もうひとつ、いい棚があったから」と
12月末に業者さん使って送ってもらい、
詩集もたくさんいただきました。
それらの荷物が積みあがっていたので、
昨日はその整頓から始めました。
模様替えは大好きなので、全く苦にならない。むしろ、前日から楽しみにしていました。
この棚、御親族が別注で作ってもらった物らしく、
これがドンとあるだけで、
何とも言えない堂々とした気持ちになるもので。
”良いモノ”って、心にもいいんやなあと改めて感じております。
1年と少し前に、このアトリエを自己改造したときは、
画材と作業場を全部、裏にまわしたけれど、
春からの工作教室に向けて、再び表に持ってきました。
画材と本が並んでるって、なんて豊かなんだろうね~。
詩集は、全部で30冊あり、
1巻は島崎藤村で、ざ~と見てみたけど、10冊目の高村光太郎からギリギリ意味がわかるようなわからないような。
だってわたし、全く文学少女でないし、あったま悪いんだもの。
11冊目の土岐善磨から、ようやく読めそうな雰囲気。
って、知ったような言い方してるけど、
土岐善磨は初めて聞くし、今 入力するのに漢字 間違わんように めっちゃ見たけど。
文学人気取りついでに言うと、
新美南吉と宮沢賢治ももらっていて、
宮沢賢治は中学のときから成人にかけて、何度か読み直そうとしたけど
目の前の酒と遊びに負けて放置してしまった。
年末から読んでいるんやけど、
宮沢賢治は、物語がどうこう・ではなくて、
この文章そのものに、癒されるんだと、初めて知りました42歳。
土田世紀の”夜回り先生”か”同じ月を見ている”のどっちか忘れたけど、
死刑囚の男性に 先生が(ってことは夜回り先生かな)、宮沢賢治の本を差し入れしたかなんかで、
次に面会行ったときに、
その男性が 「雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ を暗記した」と言って号泣しながら読み上げる場面があるんやけど。
宮沢賢治の詩で号泣する気持ち、
今ならなんとなく100分の1くらいなら、わかるような気がします。
おまけ話と言っちゃあ何ですが、
あの さくらももこ大先生が新美南吉の大ファンで、
コラムで新美南吉のことを手書き文字で書いてた時に
「新見南吉」と書いていて、
後日に「あたしゃ恥ずかしいよ」的なことを書いてました。
ふふ。
あたしゃ、リアルりぼん世代のまるちゃんファンですから。えっへん。
詩集の11巻からも、ゆっくり読んでいけたらいいなと思っています。
1巻~10巻に関しては、牢屋に入ることでもあれば、辞書を引きながら読みます。
ルームメイトと他の囚人の悪口とか噂話とかしたくないし。
そんなこんなです。
元旦は、ずーっと重いため息をついてテレビとにらめっこ。
翌日に、鎧塚さんが 「料理人や文化人たちでできることを話し合っています」と書いていて、
こういうときに
世の中を励ます影響力がある人らって、不謹慎な表現かもしらんけど、かっこいいなと素直に思いました。
わたし(達)のような凡人は、変わらずコツコツ真面目に生きて行くだけ。
誰もが、胸を痛めてないわけがない。