『超越の棋士 羽生善治』を読んで。 | 徒然に。

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思ったことを気ままに。

 私は熱烈な将棋ファンだ。

 サッカーのことばかりブログに書いているけれど、ここ何年も純粋に好きなのは将棋だ。

 ただ、今でもコーチをやっていることもあり、サッカー映像や情報は必ずチェックするし、定期的に指導者本も読み返す。

 だけどそれはサッカーが好きだからという感じではない。むしろ義務感でやっている感じがする。

 コーチをやっていなければ多分、私の生活からはサッカーはなくなると思う。

 

 そんな中、将棋を本業としている棋士は、どういった姿勢で将棋に取り組んでいるのだろうかということに、長年興味があった。

 こういったことは、どんな職業についている人にも参考になるような気がしている。

 私は渡辺明先生の姿勢が面白いと思う。

 彼は「棋士は暇。だけど20代のあるとき、普通の会社員が働いている平日の朝9時くらいから夜6時くらいまで、将棋の研究をすることに決めた。世間様がやっていることぐらいは最低限、自分も努力しようと思った。今では勝ち負けより研究すること自体ができているかが大事」みたいなことを語っている。

 

 そして羽生先生である。

 この本の最後に、私としては心の奥底から共感する言葉を羽生先生は仰っていた。

ーでは、羽生さんにとって、生きることの意味とは何ですか。これだけ長く将棋を続けてきて、どこかで感じる瞬間もあると思います。(中略)

 そう問いかけると、羽生は「うーん」と唸って、一度息を吸い直してからまた、「うーん」と長く唸ってから、静かに語り掛けるような口調で言った。

「本当にあるんですかね、それね・・。生きることの意味付けをしていくのが人、という気はしますけど。だって、動物はしないじゃないですか。犬に生きる意味なんてないですもんね」

ーそうですね。羽生さんは、どういう意味付けをしてきているんですか。

「いやぁ、うーん、まあでも、それは何ていうか、生きてきた証とか、意味とか、そういうものを感じたいというのは、やっぱりあるのかなぁとは思いますけど・・」

ーたとえ幻だとしても、将棋の本質や真理の一かけらでも知って、少しでも前に進むことで、将棋をやってきた手ごたえを感じたいわけですよね。

「うん。だとは思うんですけど・・。でも、じゃあ、それが本当に生きる意味かと言われたら、また別の話ですよね」

ーああ、絶対的な意味とは言えない・・。

「うん・・まあ、100年も経ったらみんな忘れちゃうでしょうしね。それに意味も何もないんじゃないですかね。だから、あまり深く考えないというところですね」

 私はたまたま幼稚園からサッカーをやっていて、今も縁がありたまたまコーチをやっている。

 もちろん子どもたちが成長する姿はうれしいし、子どもたちが信頼を寄せてくれるのがわかると嬉しい。

 さらに長年自分なりにサッカーについて考えてきたことを、こうやってブログで書くようになり、それなりに反響をいただいている。それもやっぱり嬉しいことだ。

 だけど、それだけのことだよなとも、心の深いところでは思う。

 コーチのために生きているわけではないし、ブログを書くために生きてるわけでもない。

 他にもいろいろやっていることはあるけども、そのために生きているわけでもない。

 じゃあ何のために生きているかと言われれば、朝がきて目が覚めたからだとしか言いようがない。

 そして目が覚めなければ、この世からさようなら。

 そのとき意識は消滅するか、それとも輪廻するのか。

 私は輪廻する確率が高いと思っているが、今の自分の前世が分からない以上、確かめようもない。

 

 たとえばコーチでいえば、その日が始まって時間になれば、事前準備をしてグラウンドに行く。それを繰り返しているだけだ。

 やっていることがそれぞれ違うにしろ、誰もがそういった日常を過ごしているのだと思う。

 仕事がある人は時間がくれば職場に行くし、ニートは朝起きてから寝るまで、時間が流れる。

 そこに本質的な貴賤はないと私は思う。

 そして誰もが平等に、100%死んでいく。

 親しい人が亡くなれば悲しいけど、それも順番だ。いつか必ず自分の番がくる。

 ホームレスは死ぬ瞬間に「最悪の人生だった」と思うかもしれないが、だれが最高か最悪かをジャッジするのかは不明だ。

 

 なにか、悠久の時の流れに、ただ自分がいるだけの気がしている。

 悪人も善人も、能力が高い人も低い人も、みんなが一緒におおいなる宇宙を歩いている感じがあるのだ。それは悲しいことではない。

 

 この本の中で、雀鬼といわれた桜井章一さんの話が出てくる。

 そして私は桜井さんにも非常に共感した。

 桜井さんは、麻雀の代打ちとして20年無敗を誇ったと言われる。

そのことを誇っているかと思いきや、桜井さんは言っている。

「なんでこんなに勝負をして、勝ち負けが出て、勝った人間がこんなに嫌な気持ちになるんだろう、というのはありますね。負けたほうはもっと嫌なんでしょうけど」

 コーチをしていての自分の試合観みたいな人を見たことがないので、私だけがおかしいとずっと思っていた。

 だけども桜井さんのような人がいて、私はホッとする思いがあった。

 うちは弱小チームだけど、市内の中ではそこそこ強いときも、たまーにあった。

 そういうときに、10点差以上で勝ちそうだなと思うと、どんどんメンバー交代や「制限」(ボールを3回回してから攻める)とかをして、点差が開かないようにしていた。私は自分が延べ10年ほどコーチをして、5点差以上で勝った記憶はない。

 断っておくが、断じて10点差をつけるチームを批判しているのではない。それがむしろ普通だと思う。

 私が変なだけだ。

 だけど点差があまりにつきそうになると、本当に嫌な気分になる。

 そして、僅差の白熱した試合ができれば、別に勝っても負けてもどちらでもいいと思う。

 なにか勝ち負け以外の体験をできたと思うからだ。

 私は圧倒して勝つのが心底嫌なのだ。

 

 将棋などのボードゲームにしろスポーツにしろ、死力を尽くして戦う至高の感覚は、経験した人は絶対にわかるはずだ。

 そしてその感覚を味わいたいから、生活のなかでそこに最も注力を注いだりする。

 私はそれは人間本来の在り方だと思う。

 「家族を生活させるために」という言葉をよく聞くけど、ただ生活することを最大限の目的にしては、人は生活できない。

 非常に貧しいと推測される地域の遺跡から、女性のアクセサリーばかりが発見されたことがある。

 そこから考古学者が類推したのは「女性たちは自分を美しく着飾るために、必死に生活していた」というものであった。

 それが真理かはわからないが、一理はあると思う。

 その点、少年サッカーに、むしろ子どもよりも保護者がハマるのは当たり前だろうと思う。

 息子のサッカーの専属コーチ、これ以上の楽しみはあるだろうか。

 そして私はコーチとして、サッカーをやっているお子さんがいる読者の方は保護者として、私は次の段階は立場は違えど、共通なものを目指せる気がしている。

 それは「試合中にコーチング禁止」だ。

 練習で徹底的に教え込むことは大事だと思う。

 だけど試合は選手のものだ。

 私は上手くなった代ではコーチングをしないコーチなので、試合を眺めていると本当におもしろいのだ。

 子どもたちの人間関係や、その子の白熱したときに湧き出てくる本質がわかったりする。

 たとえば普段は強気なのに、緊迫してくるとすぐに逃げたがる子がいたりする。

 そういう子を何とかしてあげたいとも思うけど、それもその子の処世術なのかもしれないとか思い、おもしろく眺める。

 なにしろ私は「勝つ」ことを目的にはしていないので、肝心な場面で逃げる子がいて負けたとしても、感情としてはただおもしろいのだ。「あそこで○○君が逃げたから負けたな」とか面白く思う。

 むしろ野生動物の生き残る最大の武器は「逃げる」ことなのだから。

 ただ、なにかその子には成功体験とか感動の体験で、そこから逃げないでほしいとも思う。

 仲間がそこにいるというのも真理だと思う。仲間との共闘は、感動的だ。

 ただ、そう私が思うからとて、それを強制したらおかしいと思う。

 その子なりの生き方なのだから。

 それが不思議なもので、こうやって眺めていると、チーム内で思わぬ出来事が起こったりする。

 これは河合隼雄先生的に言えば「ただ眺める人が必要」なのだと思う。

 人は指導しなければいけないと思っているけど、基本は眺めていることが最高なのだと思う。

 あれこれ思いながらただ眺めていると、思いがけない変化が現れる。

 

 試合もきっと、コーチや保護者が何も言わずに眺めていれば、めちゃくちゃおもしろい変化が現れると私は確信する。

 私が変人だから言うのかもしれないけど、世界中がおかしいと思う。

 だいたい、囲碁や将棋、チェスのトッププレイヤーに誰が指示するというのだろうか。

 そもそも勝負の本質は、上記した羽生先生のように、お互いがぎりぎり死力を尽くして均衡を保っているところに至高の美しさがあると思う。

 それを外部の監督から客観的に見たら○○が弱点だからそこを攻めろとか、そんなことを言う必要はないのだと思う。

 将棋のプロは対局が終わった後感想戦をやるけど、サッカーで言えば感想戦に当たる試合後ミーティングにコーチが出てくればいいと思う。

 そこで選手と一緒に考えて反省点を挙げればそれでいいのだろうと思う。

 

 そうやればきっと、練習を徹底的にやるコーチや保護者、そして試合を楽しむ子どもたち、みんなが至高の瞬間を持てると私は思っている。