フランクルと藤沢周平。 | 徒然に。

徒然に。

思ったことを気ままに。

 私にとって、命の恩人ともいえるのが、フランクルと藤沢周平です。

 

 フランクルは、ナチスの強制収容所に入れられ自身が苦しんだだけではなく、両親と妻は強制収容所で殺されました。

 強制収容所の体験を描いたフランクルの『夜と霧』にはこう書かれています。

仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。そうではなく、強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ。

 その他にも、フランクルは仏陀の境地だったとしか思えないような言葉を残しています。

・運命に感謝しています。だって、わたしをこんなにひどい目にあわせてくれたのだから。

・あなたが人生に絶望しようとも、人生があなたに絶望することはない。何かや誰かのためにできることがきっとある。時があなたを待っている。

・ 祝福しなさいその運命を。信じなさいその意味を。

(妻を収容所で亡くし、再婚した妻エリーへ、フランクリンが亡くなるときに残した言葉)

 エリーへ あなたは、苦悩する人間を 愛する人間 に変えてくれました。

・人間は緊張のない状態など本当は求めてはいない。心の底では目標に向かって苦闘する日々を望んでいるのだ。

 人の苦しみを比べることはできません。他者から見れば一見些細なことでも、その人から見たら生きるか死ぬかの問題だということもたくさんあります。

 私は特に10代20代は毎日死にたいと思っているような人間でした。

 そういったなかでフランクルの『夜と霧』を読んだとき、打ちのめされました。

 確かに苦しみの総量は、強制収容所で家族を全員失ったフランクルと私では変わらないのかもしれませんが、フランクルのような圧倒的な現実的苦しみが私にあったわけではないのです。そうした中、フランクルはなにか人間精神の最高の波動のようなものを出しているように私には思えたのでした。

 それからは、フランクルの言葉を時々思い出し、自殺願望みたいなものが出てくるときでも「生きること自体に意味がある」と思っています。そして実際にそうだと思います。私はフランクルのおかげで「死ぬまで一生懸命生きよう」と思えたのでした。

 

 藤沢周平は、フランクルよりももっと直接的に、私の心を救ってくれたと思います。

 あるときたまたま読んだ藤沢周平の『蝉しぐれ』が、感動的過ぎました。一気に読んでしまい、気づいたら朝で、私は感動で泣いたのでした。

 藤沢周平もフランクルと同じく、苦難の人生でした。

 念願の教師になって2年目に肺結核になり(当時は不治の病とされていました)7年にも及ぶ闘病生活を送ります。教師資格は失われ、業界紙の記者に転向しました。そんな矢先、妻が急死します。やりたくもない(本人は意外に楽しかったと書いていますが、私は本心はやっぱりやりたくなかったんだと思います)業界紙の記者を続けて、44歳で作家デビューをします。

 藤沢周平は随筆には、やっぱり作家よりも教師としてまっとうしたかったと書いています。

 

・どうせ人生の本質はつらく、人間は孤独なぐらい百も承知している。 

・飯の糧にならないことが、心の糧になる。

・私は所有する物は少なければ少ないほどいいと考えているのである。物をふやさず、むしろ少しずつ減らし、生きている痕跡をだんだん消しながら、やがてふっと消えるように生涯を終ることが出来たらしあわせだろうと時どき夢想する。

 特に↑藤沢周平の最後の言葉が、心の奥底の琴線に触れます。

 ただ私だけではなくて、日本人はけっこう多くの人が、こういった心境なのではないでしょうか。

 

 私はフランクルや藤沢周平に耽溺し、特に藤沢周平の作品は全作読みました。

 本当に心が洗われるような文章なのです。

 そして、時には犯罪者を主人公にしながら、その犯罪者にも限りない愛情を注いで作品を書く藤沢周平は仏陀のようだと思ったのです。

 

 今日こんな主題で記事を書かせていただいたのは、少年サッカーコーチで難題にぶつかっているからです。

 その子は最初から大人に反抗的で、なにを語りかけても反抗です。さらに友達のボールを蹴っ飛ばしたりします。

 ただそういうとき、私は河合隼雄の言葉を思い出します。

・問題児とは、問題を提出する子どもである。

 私は「コーチ対子ども」ではなく「人間対人間」で話そうと思いました。

 そして10分くらい、2人で話しました。

 お互い分かり合えたとはなかなか言えないです。

 ですが拗ねて憮然とした態度で練習に加わらなかったその子は練習終わり、なぜか仲間のボールを拾って、私のいる集合場所に持ってくるのです。

 私はその姿を見たとき、なにかを分かり合えたかなと思いました。

 今後もぶつかることもあるでしょうが、ぶつかるということ自体、一つの関係性でしょう。

 今文章なので冷静に書いていますが、そのときは私も必死なのです。

 ですが、小学生の子どもに対して、声を荒げることなく、自分の思いを語れたことはよかったと思います。

 そしてその子がグラウンドでそういう態度を取るということは、私にも問題があるのです。

 さらに、その子は問題を出してくれた時点で、問題を提出してくれるわけなので、なにか意味があるのでしょう。

 その謎解きは、私の仕事なのでしょう。

 

「コーチはどんな子にも愛情を注いで平等に接しなければならない」といった美辞麗句は、私は意味がないと思います。

 現実的にそんなことはありえないでしょう。

 ですが、コーチや教師は「あなたのことは正直にいえば嫌いだけど、私はコーチとして、それ以前に人間として、あなたが幸福に生きていけるようにベストを尽くす」ということが必要に思うのです。

 そして、なにかそういった高次の感情といいますか波動みたいのを、私に教えてくれたのがフランクルや藤沢周平だと思います。