判断力とスピード。 | 徒然に。

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思ったことを気ままに。

 過去のブログに「判断」についての興味深いコメントをいただいたので、改めて考えてみました。

 私はよく、サッカーについて考えるとき「将棋はどうかな」と考えます。

 将棋とサッカーはよく似ていると思うのです。

 将棋は「手筋」と呼ばれる基本技をどう組み合わせるかが大事になってきます。奇想天外な手はなかなかないのです。

 手筋をある程度使いこなせるようになるのは、将棋のアマチュア初段くらいだと思います。

 私は将棋アマチュア三段ですが、初段くらいから格段に将棋がおもしろくなりました。

 そして将棋でアマチュア初段くらいのレベルが、サッカーではリフティング100回かなと思っています。

 将棋もサッカーも、ある程度の基本技ができてくると、いきなり面白くなるという点で似ていると思います。

 さらに、将棋もサッカーも空間把握が非常に大切になるという点でも似ています。

 

 では将棋の棋士は、指し手を決めるときに「スピードをあげよう」と考えているでしょうか。

 私は考えていないと思います。

 たとえば羽生善治先生は「まず頭にいい手が浮かぶかどうか。浮かんだ手を論理的に検証するのです」と言っています。

 つまり「〇〇だから結論は△△」という思考法ではなくて、いきなり結論が浮かんでから、本当にその手が論理的に破綻していないかを検証するのです。

 さらに羽生先生は「手を読むときは、一つの塊で考えている」と言っています。

 10手一組くらいの手の流れは必然で、その10手後の局面が瞬時に頭に浮かぶということです。

 なぜ棋士がそんなことをできるかというと、子どもの頃から毎日将棋を指して勉強しているからです。その勉強をするときに「スピードをあげなくちゃ」とは思っていないはずです。

 日頃の訓練のなかで、プレーメモリが溜まっていった結果、神業のようなスピードで手を読めるということだと思います。

 たとえば、永瀬拓矢九段。

 異常な速さで指し手を進めています。

 

 

 藤井聡太名人・竜王の長編詰将棋。

 藤井先生の解説を聞いていただければわかると思うのですが、人間業とは思えないです。

 

 

 サッカーに応用するとどうでしょうか。

 プレーメモリを溜めて、判断を正確に速くするためには、サッカーそのものをプレーする必要があると思います。

 さらに、藤井聡太先生が「中継される将棋対局はすべて見ている」と言っているように、プレーを見ることも大事だと思います。

 その点、今や指導法が世界的に均一化されたのに関わらず、今のところは世界のトップオブトップを争う選手は南米とヨーロッパからしかでてきていないのは、そのことに関係する気がしています。

 南米やヨーロッパでは、地元に応援するクラブがあり、毎週末サッカーを見ています。

 子どもたちは純粋にチームを応援しているのでしょうけども、それがプレーメモリに繋がっていると思うのです。

 その点、Jリーグが地上波で放送されないのはもちろん、日本代表戦すら放送されなくなってきています。

 私は日本サッカー協会がまっさきに取り組むことは、一般の人が目にする形でテレビでサッカーの放送が増えるように働きかけることだと思うのですがどうでしょうか。

 サッカーについてブログを書いていると、さもサッカー人がたくさんいるように錯覚しますが、サッカー自体がけっこうマニアックな分野になっている気もします。

 もし日本サッカー協会が本気でワールドカップ優勝を目指すならば、エリートプログラムとかももちろん必要でしょうけども、もっと大事なことは「サッカーの裾野を広げること」だと思うのです。

 どんなに頑張って上澄みの部分を鍛えても、10人から1人選抜するより100人から1人選抜するほうがレベルが高くなるのは当たり前の話です。

 そして私は実は、日本サッカーは右肩上がりではいかず、あと10年もしたらアジアの他の国々に抜かれていくと予想しています。

 というのは、日本のサッカー人口は減る一方だからです。

 

サッカー離れに歯止めを 小学校体育に講師派遣 日本協会、登録無料化も – デーリー東北デジタル さん

 

 最近うちのチームは人数の減少に悩んでいますが、練習試合をした仲のいいチームの監督さんと話すと、やっぱりうちと同じような現象が起きています。

 一部のブランドチームは人数を保っていますが、それ以外の普通のチームは軒並み人数が減っている印象があります。その学年で試合ができないので、一つ上の代の子を出すということを事前にお互い了承して試合をすることもよくあります。

 そうなってくると、いい選手がでる確率が減りますし、何よりサッカー文化がやせ衰えるような気がしていて、ちょっと寂しくもなります。

 

 話を戻します。

 サッカーをすることによってプレーメモリを溜めるということですが、一つ基準があるように思うのです。

 それは「プレーモデル」です。

 「うちのチームはこういうサッカーを目指します」というものです。

 なぜバルサのカンテラで育ったシャビやメッシ、イニエスタは判断が異常に速いのでしょうか。

 私はバルサが「ポゼッション」というキーワードを軸にして、徹底的にプレーモデルに沿ってやっているからだと思います。

 「少年サッカーでは満遍なくいろいろやるべきだ」という考えもあると思いますが、私は違った考えを持っています。

 もちろん最低限の共通した技術戦術を教えるべきだと思います。

 ですが知性や個性は、まったく自由なところからは生まれません。

 バルサならば「ポゼッション」というやりたいことがあり、その制限の下で自分なりに道筋を見つけるのです。

 ドリブルを重視したチームでも同じでしょう。

 ドリブルで抜きにかかることを大前提にして、自分なりにコースを見つけるのです。

 そしてある制限下でプレーすると実はプレーメモリが豊富に溜まると私は思っています。

 

 ちょっと難しい話になりますが、これは「母性」と「父性」に関係すると思っています。

 母は日常生活で生きていくためのことを子どもに教えます。

 父は社会生活で生きていくためのことを教えます。

 現代は父と母の役割が逆転している家庭もけっこうあると思うので(良し悪しではないです)男だから〇〇、女だから△△と言っているのではなく、あくまで父性母性の話で、父性を女性が担っていることもあります。

 サッカーにおける母性のコーチングは「何々をやりなさい!」です。それができなくては困るので、その子の意志は関係なく、まずはそれをできるようにします。

 トイレで排便できなかったら困るのと同じです。

 ですが父性は違います。

 父性は「禁止」なのです。

 父性は社会の掟を教えるところです。

 父(もちろん女性が父性を担っているなら母)が「絶対に人を殺してはいけない」という「禁止」のルールを子どもに教えます。

 そのルールに反して子どもは人を殺してしまいました。

 母は子どもをかばいますが、父はルールを破ったからには子どもを殺します。

 そういった父性と母性を両方経験して、子どもは大人になっていくというのが、ユング研究の第一人者である河合隼雄先生たちが主張したことでした。

 サッカーに戻りますと「ドリブルでいけ!」とかの指示は、低学年や中学年までな気がしています。その年代くらいまでは「母性」のコーチングだと思います。 

 しかし高学年くらいになると、私は「父性」のコーチングに変えるようにしています。

 誰しも思うことですが、小学6年くらいから、男の子は「男」になってきます。

 そうなると、どちらかといえば「社会の掟」を教えるときでしょう。

 グラウンドでどういうプレーするのもいいけど、味方のミスに文句を言うやつは即交代、とかは私が以前にやっていた決まりでした。

 きまりは何でもいいのですが、〇〇は絶対にだめ、だけを決めます。

 けっこう厳しく思えますが、父性のほうが楽な部分も多いのです。

 そのことに違反しなければ何をしてもいいのです。

 そういうところから創造性が生まれると私は思っているのです。

 そこから判断の正確性や速さも出てくると思っています。

 たとえば中国では政治批判は本当にやばいです。

 ですがそれ以外は何をやってもいいので、中国社会は楽なのです。

 中国は「父性の国」だと思います。

 

 話がずれたようで、ズレていないと思います。

 将棋にはコーチはいません。

 そういった中、自分で考えて藤井聡太先生や羽生善治先生は出てきたのです。

 けっこう今回は微妙で繊細な領域だと私的には思っていることを書かせていただきました。