占星術とサッカー。 | 徒然に。

徒然に。

思ったことを気ままに。

 いきなりの「占星術」です(笑)。

 しかし、それで食っていけるなら、私は「プロの占星術師」になりたいと今でも思っています。

 私が「自称占星術師」ということを友達は知っていて、仲のいいヤツはだいたい占った気がします。その友達で子どもが生まれたりすると「ちょっと占ってよ」と連絡が来て、占ったりしています(笑)。

 占いといっても、適当なものではないのです。ブログを読んでいただければわかるかと思いますが、私は徹底的に凝り性なので、特に西洋占星術は一時期教科書を何冊も買い込んで勉強しました。

 占星術の体系は、占いというよりも哲学というべきものでしょう。

 本格的に勉強したい方は、松村潔先生の↓を読まれてはいかがでしょうか。

 あまりの難解さに、哲学書を読んでいるのとほとんど変わらないのです。

 

完全マスター 西洋占星術 (The series of perfect master) | 松村 潔 |本 | 通販 | Amazon さん 

 

 おもしろさの一端を知っていただきたいと思います。

 たとえば土星は、公転周期が30年ほどです。

 人は30歳くらいで結婚なり仕事を本格的に決めたりして、そこから社会生活に出ていきます。

 さらに30年した60歳で、社会の第一線から退きはじめます。

 土星は枠組みを決めるのです。

 このようなことから、土星は「時を司る惑星」として、規則性や老成したもの、厳格な教師などを象徴するようになりました。

 ところで、うんと歳上の男性と結婚したり恋愛する女性がいます。

 そういう女性のホロスコープ(その人が生まれたときの星の配置)を出すと、土星が意味がある配置を取っていることが多いのです。

 たとえば女性にとっての「理想の配偶者」を表す太陽や「性的な意味での理想の恋人」を表す火星と、土星がアスペクト(意味がある角度)を取っていたりいます。

 もしくは女性自身が女らしさを感じる金星や、妻としての自分を感じる月と土星が、特徴的にアスペクトを取っていたりします。

 これはほんの一例です。

 ですが、私は現代科学ではまだ解明されていないような何かが、古代哲学である占星術には隠されていると思うのです。

 

 最近リブログしていただいて以来、毎回楽しく拝読させていただいているブログがあります。

 

 

 しかもコメント欄に、これまた私が愛読しているブログの方が意見を書かれていました。

大変でしたね。

持論があるのであれば、自分のブログ等で主張すれば良いのであって、それを自分と違う取り組みをしている方のブログにまできて主張するのは違いますよね。

ウチは利き足を重視して取り組んでいますが、必ず逆足は?と聞かれるので、持論を押し付けられる煩わしさはよくわかります。。

道はひとつではないので、それぞれが信じる道を進めばいいのだと思います。 

 

 私は、このお二方の意見に、深く同意するものです。

 

 私は、もちろん罵詈雑言は良くないと思いますが、自分が発信するプラットフォームでの発言に関しては、いくらでも批判的な意見を書いてもいいと思います。

 ただ、相手の発言の場に踏み込んで議論を吹っ掛けたり、意見を言うのは駄目だと思います。

 そこの差が、あまりに大きいのだと思います。

 自分のプラットフォームで批判を書くのは構わないけど、他者のプラットフォームに踏み込んで批判を書いたら、それは人権侵害だと思っています。

 たとえば私はレオザフットボールさんには、けっこう批判的な立場です。

 ですが、当たり前の話ですが、レオザさんのyoutubeチャンネルに書き込みをしたことは一度もありません。それをやったら人権侵害でしょう。

 それどころか、私のような零細ブログが、今や日本一のサッカー批評家であるレオザさんに対して勝手に好敵手だと思っているのでした(笑)。

 自分とは違う意見に対しては「お!いいライバルが現れたな!」くらいでいいのではないでしょうか。

 

 話を戻します。

 ただ、上で挙げたブログで書かれていることは、今日私が書きたいことに関連しているのでした。

 けど、時々両足はダメとか、最初からパスしないとダメとか、自分の取り組みが1番優れていると信じている方からメッセージを頂く。丁寧に返信するけど、公開はしていない、すみません。

 

 私は「利き足がいいか両足がいいか論争」については、自身の見解を持ち合わせていません。もしかしたら本質的なことなのかもしれませんが、あまり意識したことがないのです。

 ただ、利き足優位話が出てきたのは、私が思うには↓のブログではないでしょうか。

 

 

 私は技術に特化したサッカーブログとしては、勝手に↑ブログは日本一だと考えています。

 それでも、常にこの方は日本をこき下ろしてブラジルがすごいと書かれていますが、もう今現在、それは揺らぎつつあるでしょう。

 三笘薫や久保建英と、ビ二シウスとロドリゴ、どちらが優れているかは意見が分かれるところでしょう。

 それと、ちょっと文章に紛らわしい表現を使っています。

 

海外サッカーではドリブルで利き足側に抜くのが当たり前ですが、これは世界標準の考えと言っても良いでしょう。

でも日本ではこうした考えはほとんどなく、むしろ両足を均等に使ってどちらにも抜けるのが正しいという発想があります。

 私は両足を使う論の方も、それはキックやトラップの話であって、ドリブルで常に両足を使えとは言っていないように思います。

 そもそも、本当に日本では左右均等に足を使っているのでしょうか。

 さらに言えば「でも日本ではこういう考えはほとんどなく」と書かれています。

 一体、どの程度の調査をしてそう結論づけたのでしょうか。

 日本人は1億2000万います。その中で「日本ではこういう考えはほとんどなく」と書く根拠はどこでしょうか。

 

 医学部時代の悪い癖が出たかもしれません。医学部では根拠がないと、徹底的に追求されるのです。

 ただ、論拠を示さずにただの空気感で他者をバカにするのは、私が最も嫌うことです。

 

 2つ目の観点です。

 「最初からパスしないとダメ」という考えです。

 このことと占星術を組み合わせて、私なりの考えを書きたいと思います。

 

 人には成長過程があります。

 20歳くらいまでは、個人の能力を伸ばします。

 20歳から40歳くらいまでは、その個人能力を伸ばしつつ、自分のいる集団でどういうパフォーマンスをできるかを考えます。

 40歳から60歳くらいまでは、社会生活が中心になります。

 そして60歳から死までは、あの世との橋渡しをします。

 

 こういったことを、占星術体系は見事に説明してくれます。

 

 牡羊座

 生命の誕生や新たな始まりを意味する。

 

 牡牛座

 五感(味覚・触覚・嗅覚・聴覚・視覚)で感じられる豊かさを象徴する。

 

 双子座

 言葉による表現や反応の仕方など、個人としての能力を伸ばす。

 

 蟹座

 好き嫌いなどの感情を中心にして行動していく星座。

 

 獅子座

 自分の内に湧き上がるものを外に向けて表現しようとする。

 

 乙女座

 現実的な能力。

 

 てんびん座

 社会のなかでのバランスと調和を重んじる。

 

 蠍座

 鋭い洞察力や対象への深い関心を示す。

 

 射手座

 哲学的思考。

 

 山羊座

 結果主義。

 

 水瓶座

 自由な未来や独創性。

 

 魚座

 境界線(つまり死)を超えていく。

 

 

 西洋占星術は「輪廻」なのです。

 魚座で死んだ個人は、牡羊座で生まれ変わります。

 そしてふたご座までで個人能力を鍛えます。

 蟹座から乙女座までで、家族や仲間内、職場での能力を鍛えます。

 てんびん座からは別のフレームに入ります。ここからは個人の能力よりも社会性になっていきます。

 てんびん座は40歳くらいで、人は個人の能力を伸ばすことではなくて、後輩に気を配るようになるのです。

 てんびん座から山羊座までは、結婚生活や仕事、地域での人間関係になっていきます。

 そして水瓶座から魚座で、社会生活を引退し、死に向かいます。これは宗教的な星座でしょう。

 

 そういった中、サッカーにはすべてが詰まっています。

 私が感動するのは、イングランド・プレミアリーグで、よくサッカー界に貢献した方が亡くなると、黙祷を捧げることです。アベマでプレミアリーグを見ていると、しょっちゅうそういう光景に出くわします。

 私は、そういうところに無条件にプレミアリーグの懐の深さを感じます。

 そしてそれは、水瓶座とか魚座の働きでしょう。

 

 少年サッカーはどの段階でしょうか。

 私は、牡羊座から双子座くらいの段階なのではないかなと思っています。

 小6後半くらいで、ようやく蟹座に入ったくらいでしょうか。

 ということは、私は小学段階では、とにかく牡牛座やふたご座の「個人能力を伸ばす」でいいと思っているのです。

 ではサッカーにおいて個人能力とはなにか。

 まずはドリブルでしょう。

 さらに、いかにトラップ、キックをうまくできるかでしょう。

 ですから、私は最初にパスありきというのとは違った考えで子どもを指導しています。

 

 ですが、感覚的に子育てした方ならばわかる気がするのです。

 だって、子どもが「友情」とかを本当の意味で示すのは、小学6年とかだと私は思います。

 それで、パスというのは「相手を思わないとできない」ものだと思うのです。

 だったら、相手を思えない中学年くらいまでは、私は徹底的にドリブルでいいと思っているのです。

 

 もちろん「最初にパスありき」の方を否定しているわけではないことを書いて、終わりにしたいと思います。